聖なるブログ 闘いうどんを啜れ

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<<   作成日時 : 2006/11/04 21:20   >>

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 「007カジノロワイヤル」の予告を見たが、新ボンド役のダニエルクレイグは栄養不良のニワトリみたいだな。

 このところ東野圭吾の初期小説『放課後』『卒業』『ウインクで乾杯』を立て続けに読んだ。密室へのこだわり、筋立ての巧さなどは、小峰元より、初期の大谷羊太郎を思わせる。なによりいいのは、登場人物がいきいきしてるとこ。あんまり女子高生や女子大生が魅力的なので、探偵物より、彼女らを主人公にしたふつうの青春小説を読みたくなってしまう。『卒業』にでてくる女剣士なんか、殺してしまうのがもったいないぐらい。人間がよく描かれているだけに、人がポコポコ殺される設定が不自然に感じられるのだ。

 いやべつに、もっと現実的にせよといってるわけじゃない。ポオとチェスタトンを至上と考える俺にとって、探偵小説とはもっと抽象的な世界なのかもしれない。だからカレルチャペックの『受難像』はとても面白かった。
 チャペックといえばむかし読んだ『山椒魚戦争』はやはりすばらしく、ブルーノシュルツやゴンブロービッチやヤセンスキーの小説、マカベイエフやヒテロバの映画とともに、東欧芸術の衝撃を伝えるものだった。戯曲『ロボット』は卒論に取り上げもした。お兄さんのヨゼフチャペックにも「人造人間」という一文があるけど、これもふくめて、もう一度一編の論文を書きたいという願望がいまでもある。そして、この『受難像』には、探偵小説的な作品もふくまれている。降り積もった雪の上にたったひとつだけ点けられた足跡、失踪した知人の妹の捜査を依頼された男とその顛末、身元不明の死体等の謎のもつ不条理を描きだす。チャペックはカフカと同時代人で、しかも生国も一緒だったと気づかされる。二部の、さらに観念的抽象的純度を高めた作品を読むと、チャペックは、カフカやベケットよるはるかにすぐれた作家なのではないか、というか、カフカやベケットが評価されすぎなんじゃないかと思ったりする。
 丸谷才一・鹿島茂・三浦雅士の『文学全集を立ちあげる』とかいう本は、丸谷御大のお言葉にお茶坊主ふたりが「それはいいですね、面白いですね」とおべんちゃらに終始する、きわめて醜悪な一冊だった(文学的にみても反動的)。丸谷には、ハスミとかカラタニとかよりかは好感を持つけれど、どんな相手にもひたすらゴマをすりまくれる三浦には唖然とさせられる。三浦はここでチャペックをSF作家扱いしてるけど、ちゃんと読んだことあるんだろうか。この本および文学全集については、またいずれ述べたい。

 サンリオ文庫の、アルフレッドジャリ『馬的思考』をひさしぶりに読む。この本も、学生時代に衝撃を受けたものだ。まだジャリという特異な人物についてはなにも知っていず、演劇史に大きな足跡を残しているとはのちに知る。しかしこの、ナンセンス論説文ともいうべき奇怪な一冊をはじめに読んだからこそ、ジャリの名を克明に記憶することができたのだ。ユビュ王や詩集だったら、それこそただ読み捨てにして顧なかっただろう(「ユビュ王」は舞台化されたものもいくつかは見たはずだが感心したことは一度もない)。はじめに読んだときはだんだん気が狂ってくるように感じたものだが、読み返してみると、意外にも諷刺的要素も大きいと気づく。
 《勇気というものを、最もあてになる図式で表わすと以下のようになろう。ヘラキュレスがよちよち歩きをしたばかりで、逃げ出そうなどという下心はほとんど持ちあわせていない小さな子供の頭の上に棍棒を振り上げた場合である。このようなかたちの勇気は、軍隊やすべての武器を操る人間のうちによく見られるものである。》《だが一時的にせよ恐いものを忘れさせる最上のものは、闘牛の牛の注意を牛が大して恐がっていないものからそらせるのと同じである。/われわれが言っているのは、赤い色の綿布を利用する場合である。その効果のほどは場合場合によってちがう。恐ろしい動物に差し出す場合と、弱い国民に差し出す場合とではぜんぜん違う。かくして国家の国旗というものがどうやって成立したかおわかりであろう。》(「勇気の定義の試み」)
 《だがもっと本物の、そしてもっと興味深い幽閉者が沢山いるのだ。多くの若い人たちが家族のもとから勝手に誘拐されてしまい、三年も経ってからようやく戻されているという、しかも何が目的なのかさっぱり解らないのだ。彼らは壁の間に閉じ込められ、厳重に監視されている。監視を容易にするために、彼らを監視している人物かあるいは団体は、奇妙なことに彼らに目に付くような派手な服装をさせているという。そんなかような誘拐事件というものはもうずいぶん昔に遡り、しかも毎年決まったように起きるので、もう一般の人たちはそんな事実をいいかげん忘れてしまっている。女コックの名言はそれほど馬鹿馬鹿しいものではない。彼女は蝦が煮られることに馴れてしまうと主張している。毎回茹でる蝦はちがっているのだが、その事実にはぜんぜん変わりがないという。あんまりそんな罪を犯す人間が多いので、もう罰しようともしないのかもしれない。》(「被幽閉者十万人」 幽閉とは徴兵を指すらしい)
 なんてあたりはかなりわかりやすいだろう。俺が最も愛するのは「溺死人の風俗」という一文だ。訳者のあとがきには何も記されていないが、『碧蝋燭』と題された書物からの部分訳だという。文学全集を編むなら、「ロートレアモン・ジャリ・アポリネール・アルトー」からなる一冊を企画すべきだろう(もっともジャリ以外は全集著作集が翻訳されているけれど)。『馬的思考』はぜひ復刊されてほしいし、なによりジャリ全集が翻訳される日が来ることを祈りたい。
 正統にも異端にもなれない中途半端な存在がいちばん下らないのだ。
 かくして、今日も正義は、わたしによって守られた。

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コメント(2件)

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トラックバックありがとうございます.
僕は,東野圭吾はまだ「放課後」しか読んでなくて,今,「卒業」を読んでいるところです.確かにおっしゃるとおり,推理小説じゃなくて,登場人物の日常だけでも十分面白い物になりそうな気がします.
PureHyperbola
2007/11/20 15:31
コメントありがとうございます。「卒業」ちょこっと内容にふれちゃいましたね。ごめんなさい。東野作品にはまた親しみたいと思ってます。
闘いうどん
2007/11/21 07:01

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