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zoom RSS 劇評15 マン・オン・ザ・ムーン

<<   作成日時 : 2012/05/30 20:58   >>

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HPに載せたもの

  続 喜劇する力
 中国の哲人劉大声は、こんなことを書いているらしい。
 《あらゆることのなかで、われわれがもっとも真剣になるのは、役人になろうとすることであって、もっともつまらないといわれるのは、芝居の役者になることだ。だがかような考えは、みなばかげていると思う。舞台の俳優たちが、それぞれ現実の人間だとは信じながら、歌を歌い、泣き、罵り合い、冗談をとばしているのを幾度か見たことがある。しかし現実は、こうして演出される昔の人物ではなくて、むしろそれらの人物に扮する俳優そのひとなのだ。彼らにはみな、親も妻子もあり、みな親や妻子を養いたいと思っている。だから歌ったり、泣いたり罵ったり、冗談をとばしたりしてその糧をえているのだ。彼らこそ、自分らが扮しようとしている舞台の人物なのだ。俳優たちのなかには、官服を着、役人の帽子を冠り、自分の演技で、本物の役人だと思い込んでいるものがある。私はそういった人々を見たことがある。それだけにこれが芝居だと思っているものは誰もいないと考えている。会釈したり、叩頭したり、席に着いたり、話をしたり、あたりを見まわしたりしている間、いや、いかめしい役人に扮して、その前に罪人らがふるえているときでさえ、歌ったり、泣いたり、笑ったり、罵ったり、冗談をとばしたりして、両親や妻子を養わねばならぬしがない俳優にすぎないことを悟らないのだ! ああ、自分の腸と五官(すなわち本能と感情)が、ことごとく芝居に支配されるまで、自分がじつは役者だということをまるで覚らないで、ある芝居、ある役割、ある台本、ある科白のあるアクセントや、ある型に、一心不乱になっている人々がこの世にはたくさんあるのだ!》(林語堂『生活の発見』)
 俺達の目のまえで演じている俳優も、ひとかわむけば生活する人間であるように、俺達観客も、ひとかわむけば演技する生活者だ。俺らは観客なのか、それとも俳優なのか。《人生は南柯の夢か、過客を乗せた船旅か、それとも役者自身が芝居だとも気づかぬ一幕か、いずれにしても、かような感傷がなければ、人生の詩歌の半ばは失われてしまうであろう》と林語堂は書いている。演劇の可能性を逆説的に示した、俺の好きな言葉だ。俺らはふだん、自分の日常生活を信じて疑わない。舞台の上の俳優達の演技を疑うように、俺達自身の日常を疑う目を養うこと。演劇の面白さとは、こんなところにあるのではないか。

 ボブズムダ『マン・オン・ザ・ムーン』を読んだ。
 去年映画で話題になったけど、若くして死んだアンディカフマンなるふしぎな芸人のふしぎな行状録+交友録は、ふしぎな魅力と感動に満ちている。こどものころからイタズラ好きで、学生時代にはゲリラ演劇の経験もあるズムダは、カフマンという天才的芸人と知り合い、ふたりでさまざまな実験的行為をコメディとしてみせてゆく。カフマン&ズムダの笑いは、かなり紹介の六ヶ敷い、とっても奇妙なものなのだ。《アンディはコメディ界のコペルニクスのごとく舞台に登場し、とんでもない概念を唱えたのである。太陽系の中心は地球にではなく太陽であり、コメディアンはかならずしも滑稽である必要はないのだ、と。たしかに、おもしろくなくてはいけない。だが、滑稽さは……かならずしも必要ではないのである。》
 カフマンのはじめのころの芸は、たとえばこんなだ。《男がステージに出てくる、ジャガイモをボウルから食べる、寝袋にもぐりこんでしばらくうたた寝する、目覚まし時計のチクタクという音。こんな芸は誰も見たことがなかった。》(ツービートが浅草時代、舞台に布団を敷いて、寝ながら漫才をやったという話を思いだす。『笑芸人』五号には、たけしと師匠深見千三郎とのコントが再現されており、必読) あるいは『華麗なるギャツビー』をひたすら朗読しつづける(閉店間際、客を追い出したいときにやったという)。
 そんなカフマンの芸風は、ズムダの協力のもと、さらに手の込んだ「罠」とでもよぶべきものになってゆく。ここらへんについては、ぜひこの本を読んで欲しい。テレビでの仕掛けは、「元気が出るテレビ」「浅ヤン」の伊藤輝夫のさきがけといえるかもしれない。そうした場所にとどまらず《カフマンのパフォーマンスの九八パーセントは、記録に残っていないし、さらに言えば、普通の観客の前で行われてもいない。それは街角やレストランなど、無数の公共の場で行われたからである。たまたまそれを目撃した人の大半は、パフォーマンスであるとはつゆ知らず、まさか自分が観客になっているとも思わなかった》という。それは大道芸ともまったく違う、人々の日常生活にはいりこんだもの、まさにゲリラ演劇だった。ズムダは、カフマンとウォーホールの、ふたりのアンディについてこう書く。《ウォーホールの有名なキャンベルスープの缶詰は、まさにこう叫んでいるからだ。私だって芸術作品だ。彼がそう言うのだから! カフマンはそういう芸能人的な虚勢が大好きだった。彼が芸術と称して、舞台で披露するさまざまな悪ふざけには、観客が呆然と見守るなかで、洗濯――本物の洗濯機と乾燥機で――することや、のんきに食事をする演目が含まれていた。/日常を芸術の域にまで高めることが、二人に共通して見られる点だった。》
 カフマン&ズムダの仕掛けた手の込んだ罠のかずかずは、まだまだこの本にいっぱい詰まってる。映画に満足できなかったひとは、ぜひぜひ読んでもらいたい。《彼にはどこか行動生物学者のようなところがあった。舞台に上がって、観客を怒らせ、どうなるかを試していたのだ。アンディは芸を見せる人だと思われていたが、実際にはアンディのほうが舞台から観客を見ていたのである。》 ふたりにとっての喜劇する力とは、林語堂のいう人生の詩歌を確認するものだったかもしれない。(じつはカフマンの芸の手本になったミスターXなるとんでもない人物が紹介されているのだが、こいつの放つ強烈な毒は、人生の詩歌なんて感傷をかるく吹き飛ばしてしまう)

 ついでながらウィリアムカールトーマス『レニー・ブルース』も読んでみた。カフマンが「罠」ならブルースは「毒」。でも、ブルースの自伝『やつらを喋りたおせ』の執筆にもかかわっていた著者によるこの本、ちっとも面白くない。芸風も人物像も、まるで浮かびあがってこないのだ。(ボブフォッシーのすごくいい映画があったが) ゆいつ「パパ、変態ってなあに?」「黙れ、坊主、黙ってしゃぶってろ」というギャグだけが印象に残る。(へらちょんぺが以前「ぼくの肛門パパのものー」と歌っていたのを思いだした) 日本でレニーブルースにいちばんちかいのは、インテリ好みの立川談志より、だんぜん弟子の快楽亭ブラックだろう。その落語にあらわれる、スカトロ、SM、差別、皇室、北朝鮮といった世界は、ほんとうに黒い幽黙に満ちていた。芸術祭で賞をもらったことに甘んじないで、これからも精進して異常な世界へ邁進してほしいと願ったところで、今日はこれでお仕舞い。

 付記 このころはもう狭苦しく内輪ぼめと派閥争いにあけくれる劇評界(というより某劇評家)にヘキエキし、普通に舞台を取りあげるのに飽きていて、自分の趣味に没頭していたのだと思う。いうまでもなく、ジムキャリー主演の映画は駄作だが、この本は素晴らしい。

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