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zoom RSS 劇評5 文学座 岸田国士作品

<<   作成日時 : 2012/05/20 00:35   >>

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以下は2002年ごろ、自分のHP(現在は閉鎖)に発表した劇評。

  日常に降りてゆくということ
 文学座創立六十五周年、三創立者記念公演で岸田国士の三作品をみに出掛ける(三月一日 文学座アトリエ)。平日の昼間だというのに、観客でいっぱい。やっぱ老舗は大したもんだ。ふだん第一バッテン委員会や伊東無線といったゴミ劇団ばっかみてる俺にとって、いい薬となるだろう。しかも北村和夫がでてるということも大きな魅力だ。俺の記憶が確かならば、北村和夫は田宮二郎と沖雅也が死んだとき、どっちとも最後のテレビドラマで共演してるのだ。それだけでもう感動してしまう。北村和夫には共演者を自殺させるなにかがあるのだろうか。客席を見渡すと犬まできている。たぶん盲導犬だろうけど、それは岸田国士の戯曲が持つ「セリフノチカラ」を浴びたいというお客の意志に違いない。
 最初の演目「顔」はそれほど感心しない。うしろにいた客が「これは『退屈な時間』かしら」と話してたほどだ。それは来月の森本薫作品だってえの。けど次の「音の世界」ははじまりの音楽と照明の効果でひきこまれる。空間をみえない境界で斜めに分割し、別別のホテルの二つの部屋をみせる舞台装置もいい。三十分ばかりの小品だが、こんなサスペンス風の作品も書いていたのかとよろこびみる。しかしなんといっても素晴らしいのは最後の「女人渇仰」だ。
 夜の街角の立つ少女の娼婦(山谷典子)。そこに話しかけてきた老人(北村和夫)。ふたりは近くのホテルに泊まるが、老人は少女ひとりを寝かせてしまい、誰に聞かせるともなく話しだす。滔滔と、自分の生涯を振り返り、めぐりあった女性たちを語る。母のこと、女房のこと、娘のこと…
 「ねむくなつたら寝るよ。おれのことなんか心配しないで、ゆつくりおやすみ。お前がかうしてそばにゐてくれるだけで、おれはうれしい。お前はおれにとつて、いつたいなんだ。なぜおれと二人きりで、こんな部屋にゐるんだ。これほど悲しい運命がほかにあるか。お前がもしおれの自由になるとしたら、おれはそれより先に、人間を廃業する。おれは、道徳家面をしてそんなことをいふんぢやない。急に、さういふことに厭氣がさしたといふわけでもない。お前を、ただ、かうして眺めてゐると、おれにはお前が、いろいろなものにみえてくるんだ。なにかしら、お前のなかにあるものが、新鮮な泉のやうにおれの渇いた喉をうるほしてくれる。それはなんだか、まだはつきりわからない。しかし、おれがとにかく、生涯をかけて探してゐたもののひとつだといふ氣がする。おふくろからも、女房からも、現在一緒に暮らしてゐる娘からさへも得られない。なにかしらやさしいもの、すべてがゆるされるやうなものが、不思議にお前のなかにはある。お前は、なにより女なんだ。はじめて會つたおれといふ爺さんのそばで、かうして無心に眠つてゐるお前、いるだけのものを出させたら、あとはなんにも望むものなしといふふうな、お前のその全體が、おれには、神々しいほど美しくみえるのだ。」
 老人は少女を、菩薩のような聖なる存在と勝手に見立てている。そのあいだ少女は、まるでみどりごのように内面を奪われ、ときどき寝言をいいながら、まどろみつづけている。男が一生のうちに出会ったひとりの女性(ほどなく別れてしまったような)を、理想の存在、聖なる存在へと昇華させてしまい、渇仰することは珍しくないだろう。それがゆきずりの娼婦であっても不思議ではない。しかしこの老人は、はじめから、出会うまえから、少女を菩薩に仕立てあげようとしていたようにみえる。そのうちには、独白されるように母や妻や娘への満たされないおもいがある。老人にとって、このときは聖なる時間であり、聖なる体験であり、少女は聖なる存在であり、宿の一部屋は至福で満たされている。いや、老人はなんとしてもそう思いこもうとしている。
 けれども本当にこの劇がすぐれているのは、聖なる時間が過ぎて、すばやい転換のあと、日常へ、老人の自宅へと立ち戻ってゆくところなのだ。
 朝帰りした老人の家には、会社へ出ているはずの娘(栗田桃子 じつにいい)が居残っている。今日は休みで、鎌倉へ遊びにいくという。帰ってきてそうそう、刺刺しいことばの応酬になる。丁丁発止のやりとりで笑わせながら、老人と娘のそれぞれの不平不満、いっしょに親子の情愛がにじみでるのだ。
 はじめに聖なる時空を置き、あとから俗なる時空に戻るという構成によって、老人の内面に奥行が現れる。これは演者によってずいぶん変わりもするだろう。「タテヨコの釣合がとれてないつてんで、兵隊はのがれた」という老人はガ体の北村和夫より中村伸郎のほうがうらぶれた感じがでてただろう。娘はやがて出掛けてゆく。鎌倉では彼女にも聖なる時間、聖なる存在が待っているかもしれない。でも老人はゆうべからの娘がそうしたと思われるように、ひとりで食器を片づけ、こぼれちった飯粒を口に入れるのだ。どこかに聖なる時空があっても、かならず人は日常に降りてゆかなければならないし、日常に降りてゆくということが、変革を求めるためにも、ほんとうはいちばん大切なことなのだ。

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