亜細亜的鼓動――西洋に未来なし

 里谷多英はトリノ五輪で優勝したら、俺達の期待通り、表彰台ファックを魅せてくれるのだろうか。

 池袋のリブロで、中村元の著作コーナーが作られていた。俺もやはり、中村元の訳した、岩波文庫の『ブッダのことば』等、いわゆる原始仏典を読んで仏教のおしえに目見開かれた者だ。そこにあらわれるブッダの、より原初的な思想は、人生いかに生きるかという実践的問題を考えさせる。去年は長尾雅人氏が九十数歳の高齢で亡くなった。長尾雅人責任編集・解説による世界の名著『バラモン教典・原始仏典』『大乗仏典』もまた、中村元編『原始仏典』『大乗仏典』とともに、俺にインド思想の深みを教えてくれたものだ。思弁的な龍樹の「中論」などより、俺には仏弟子の美しい詩や維摩経の感覚的世界のほうが受け入れやすかった。維摩経と、小栗虫太郎「完全犯罪」はぜひ誰かに映像化してもらいたいと願う。日本には東洋思想・文学のすばらしい翻訳が、尽きることのないほど満ち溢れていて、俺もながらくそれらに親しんできたけれど、この世には篤実な学者にひっついているだけで、研究者でもないのに研究者ヅラした醜怪な低脳ウンコ野郎もいるようだ。こんなヤツは論外だが、もういちど、仏教をはじめとした東洋の諸思想を読み返さなければならない。
 土本典昭の映画「ありし日のカーブル博物館」をDVDでみる。ここにあらわれる美しい仏教美術の数数は、現在では破壊されたか盗まれたかして、消失もしくは所在不明になっている。しかしまだ、アフガンには未発掘の仏教遺跡が多数残されてい、調査が進められているらしい。先日テレビでもそのような番組が放送されていたが、現地の人人の多くは遺跡である石窟にいまも住んでおり、役人は文化財保護のため、そこを世界遺産に指定させて、皆を追い払おうと計画しているとかいってたと記憶する。でも、そこに先祖代代人人が住んでいるなら、それもまた文化というべきであり、みだりに追い出すことがいいことなのか、俺には疑問だ。アジア文化をなにより根源的に破壊してきたのは、邪悪な西洋列強の植民地主義・帝国主義なのだから。

 最強★プラネタリウム「亜細亜的鼓動’06」を観る(東京芸術劇場小ホール1)。この劇団をみるのは三度目。宇宙空間を題材に、なかなか質の高い娯楽作品を創造している。今回の舞台は、香港返還の年に上演された作品の再演とか。惑星亜細亜は、過去の戦争に敗れ、中央亜細亜(セントラルエイジア)と亜細亜的鼓動(エイジアンビート)に分割。亜細亜的鼓動は、戦勝星ユナイテッドMの領土となり、統治され、抑圧を受けている。ここから亜細亜的鼓動の登場人物達が独立に目覚め、立ちあがり、圧制者と戦うという物語。通俗的な像として表象される擬似アジアは気になるが、ここから西洋の植民地責任の追及という思想を導きだすこともできなくはない。初演時はどうだったかわからないが、現在の視点で考えると、英・香・中を擬した関係は、米・日・中に置き換えられて見えてくる。おそらく作り手も意識して重ねあわされるようにしたのだろう。立石タイガーの絵に、日章旗が、米という字と、共産主義の共の字にはさまれて、「糞」にみえるのがあったのをつい思い浮かべる。西洋のみならず、中華思想への併合をも拒みとおし、固有の文化を守ること。それこそが、真のアジアの生きる道なのだ。もちろんそんなふうに考えずとも、この人間プラネタリウムをただ楽しめばよい。最終場面の活劇は速い律動で展開し、登場人物の半分を惜しげもなく殺してゆくことにより、濃密な劇空間がつくりあげられる。いや面白かった。○体道場とかよりはるかに完成度高い(あたりまえか)。二週つづけて、いい芝居を観ることができ、嬉しい。

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