落語「天神山」

 先週の話だが、林家染二独演会(国立演芸場)で、古式芝居仕立ての「天神山」をみた。少年の頃、ラジオで五代目文枝さん(当時は小文枝)のこの演目を聴き、鳥肌立つぐらいに感動したのだ。そのときの解説で、文枝師匠が復活させた芝居仕立ての特殊な演出があると知り、ながらく観たい観たいと思って、文枝の会にもしばしば通ったが、ついに念願叶わぬまま、五代目は亡くなられてしまった。このたびやっと、めぐりあったというしだい。

 「天神山」とは、葛の葉の子別れの物語を「野ざらし」に挿めこんだ噺で、男が命を救った狐を嫁に迎えるが、妻は近所の男達に正体がバレ、障子に歌を書きつけ去ってゆくというもの。元は説経節の語りだったのが、人形浄瑠璃に採り入れられ、歌舞伎になり、落語へと拡がっていったようだ。染二さんは、歌舞伎役者のような顔立ちだが、声は地下鉄漫才の春日三球似。最後に狐が正体を現わしたところで座布団を抛って立ちあがり、筆を持ってうしろの障子に和歌を書く。下から上へ、つぎは左右裏返しに、しまいは筆を口にくわえてといったぐあいに、一行ごとに、文字を曲書する。文枝さんでみたかったとの心残りこそあるにせよ、充分満足した俺は、帰って家で二代目若松若太夫の説経節「葛の葉」を聴き、堪能したのだった。
 さきごろ亡くなった鶴見和子は、この物語を考察した折口信夫にふれて、《自然と人間とのつきあいが究極にいったときには、動植物と人間が結婚し、そこから尊い人間が生まれた。》《民俗音楽とか民俗芸能が依拠するところは何かというと、それは人間も含めた自然の事物です。自然のリズムを常に根もとに置かないと、それは枯れてしまいます。芸能への感性は、自然と人間とのつきあいをとおして生かされ、そこから創造性が出てくる。折口信夫はそういうふうに考えていると思われます》と語っている。これは石井達朗が新著『身体の臨界点』で、《人間のなかの失われた動物臭をいかに取り戻すのかは、パフォーマンスの一つの課題である》と述べているのにも共通する、もっとも深い、それでいて演劇評論屋の誰もが考えようとしない問題点だろう。石井さん(真の演劇思想家として評価できる数少ない人だ)自身も、これについてはまだ思考途上にあるらしい。氏がとりあげているのは騎馬オペラジンガロだが、以前もふれたとおり、俺はこの曲馬はあまり買わないし、人馬が寝食を共にしているというのも、本当かしらと思ってしまう。石井さんは、田中泯について《「百姓」をするという労働と「表現」と呼ばれるものの動態の乖離を一つにして生きるという未踏の作業に入るのである》と書くけれど、田中泯と共演したことのある男によると、田中は取材があるとき以外は絶対自分では農作業をしないのだそうだ。
 「芸術」を捨て、生活それ自体を表現にすること。生と生活と表現を一体化させ、全体性として取り戻すこと。

 たまたま通りがかったミツムラアートプラザで、いきものつながりアート展をみる。五人のそれぞれ違った表現方法を持つ美術家による、動物や植物の作品で、みな日本野鳥の会会員だったみたいだ。どれもすぐれた作品だったが、とりわけ鈴木勉の、フワっとした羽毛の質感をみごとに表わした木彫りがすごい。松村しのぶのフィギュアをみると、根付の工芸はいまガチャガチャに生きていると思わざるをえない。とても素敵な展示なので、ぜひ見てほしい。
 クリストの講演会が来月目黒であるそうだが、なぜこんなやつが環境芸術家と呼ばれているのだろう。あの梱包芸術とやらは、どうみても自然破壊にほかならず、環境保護団体はこの野郎を糾弾すべきではないのか。
 異生物をふくむ他者とほんとうに心を通わせる行為それ自体が、真の芸術の在り方なのだ。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック