劇評8 演劇批評の可能性

これは2001年、某劇団の稽古場で行われた、以前とは別の劇評講座に提出した文章

 批評に今、何が可能か?
 演劇批評? 読まないねえ。面白くないもん。だいたい演劇もみないし。『演劇人』七号に批評について三つ連載がはじまってるけど、やっぱ面白くない。たぶんつづきを読むことはないだろう。批評を読むくらいなら演劇みてたほうがマシじゃん。でもそんな俺も、演劇について考えたり書いたりするのは好きなのだ。なんなんでしょうね、それって。で、今回は、俺が最近読んだすごく面白い批評についての話をする。
 はたして西本贋司『裏プライド読本』を演劇批評といったら、バチがあたるだろうか。俺は演劇について考えるとき、作品より現実を批判すること、演劇という概念をおしひろげること、に重点を置く。だから俺の書くものはよく、「作品と関係ない」「劇評じゃない」「恣意的であって、読者に混乱を招く」との非難を浴びるのだ。先日みたインドの現代美術家アトゥールドディヤの絵に、亜米利加でコヨーテと過ごすヨーゼフボイスの表現行為の最中にガンジーが闖入してくるというのがあった。ランジットホスコテの解説によると《ボイスは、ギャラリーという比較的安全で、保護されかつ制度化された空間で破壊行為を行ったのに対し、ガンディーは、社会という非常に厳しい環境を選んだ。》 七日間外に出ず、コヨーテとすごしつづけるボイスの行為は、井の中の蛙がそのまま井の外につながっているといった魅力はあるけれども、現実世界を変革するために野外を歩きつづけたガンジーのまえでは、安楽椅子革命家とよばれてもしかたないかもしれない。おなじように批評が作品の内に引きこもってしまっては、あるいは理論の内に引きこもってしまっては、なんらの可能性も持たないのではないか。また、毎日新聞の取材班による『発掘捏造』を読めば、神様とよばれる人物が遺跡発掘現場という舞台にあらわれ捏造品を埋める行為を発見するため、夜更けから地べたに這いつくばって待ちつづけ、それによって神の権威を解体する努力に、これこそ現実を撃つ、真の意味での批評行為なのだと俺ははげしく感動する。俺は舞台上演に限定された「演劇」など、なんのきょうみも持たない。俺にとっての演劇批評とは、まさにこうしたことなのだ。だからちょっと見方を変えて冒頭に戻ると、演劇批評? 読む読む、だって面白いもん、ということになるのだ。
 さて、『裏プライド読本』だ。この本の美点は、まずわかりやすく、明快な見取り図を描いていることだ。批評の役割が見取り図を描くことならば、この本は一級の批評になりえているだろう。著者は、いまもっとも熱く、総合格闘技では世界最高峰の舞台といわれる大会興行・プライドを検証してゆく。見世物としてのプロレスから真剣勝負の総合格闘技へ。これは「再現から行動へ」という流れなのか。いや、プライドの舞台がすでにして、さまざまな物語を産出し、それによって格闘技界を支配しようとしているのだ(七月の興行も、桜庭の復活・石澤の復讐をみごとな劇として演出していた)。九〇年代以降、細分化し、混迷してゆくプロレス・格闘技界。はんたいに、それらを追い詰め、吸収して一人勝ちしてゆくプライド。《九〇年代のプロレス業界は、もはや関係者でさえ把握できなくなった団体のインディー化と、離合集散によって混沌としている》《前近代的なシステムしか持たないプロレス業界に、高度資本主義のエッセンスを持ち込んだのがPRIDEといっていいだろう》《いうなれば、プロレス団体のマイナー化、PRIDEのメジャー化である。PRIDEはプロレスと格闘技の上位概念となり、放っておいてもブランドイメージは高まる。/PRIDEが、格闘技とプロレスを制覇する日がやってきたのである》との著者の指摘を「演劇」の問題にひきつけるなら、内野儀の《「演劇界」は、統御不能な「趣味的共同体」がその内部で乱立する「演劇村」ではなく(徹底化されたポストモダン)、確固たるハイアラーキー構造をもつ一大権力空間のシステムとして稼動しはじめているのではないか。つまり、「村」から「業界」へ。「村」的構造が持たざるをえない諸問題が何ら解決されないまま、その「村」がそのまま「業界」へと変貌を遂げつつあるのではないか》(『演劇人』)という指摘と重ねあわすことができる(恣意的だが)。
 プライドの看板選手、桜庭和志の敗戦は仕組まれたものだった、とか、もうひとりの看板、藤田和之をつかって他団体を潰しにかかっている、といった事情を検証しつつ、いかにプライドが一人勝ちしてるかをみ、さらにおそるべきそのウラを探ってゆく。それでも次回のプライドにフランクシャムロックが出場するなんて噂を聞くと、ドキドキしちゃうけれど。《お互いが潰し合い、ファンを喰い合う現状から、お互いが高めあい、補完し合う未来が広がるのだ》という著者の言葉に、意味生成的関係性をみたい。批評とは、こうした変革への意志なのだ。
 ところでシアターカフェの理念て、猫ニャーの演劇弁当と同じなのだろうか。

 付記 以前通っていた劇評講座で、ゴマスリばかりはびこっていたのに嫌気がさしていたのだが、つづきにあたるこの企画では、なるべく演劇から遠ざかろうとしていて、ムリヤリ格闘技に話を持っていってる。けっきょくフランクシャムロックは最後までPRIDEには出場しなかった。

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