劇評10 太陽劇団

太陽劇団「堤防の上の鼓手」

 太陽劇団「堤防の上の鼓手」(九月十六日 新国立劇場)は、稀にみる高い完成度を示した舞台作品だった。
 まず劇場内全体に厳粛な祝祭空間がつくりだされている。ふだん舞台として使われている場所に客席を置き、その左側には特設楽屋がつくられ、俳優達が着替え、化粧するのがながめられるようになっている。俳優達はそこで開演時間よりずっとはやくに「視られていること」を意識し、緊張を強いられなければならず、また観客も、開演前から俳優達のふだんみられない姿を眼にすることで、舞台への期待と感覚を研ぎ澄まさずにはおかない。かつてカタカリの来日公演があったとき、幕のあいだから、役者が化粧しているのをのぞけるようにしていたのを思いだす。楽屋に並べられた机には、骨董品屋の店先のように、雑多な物が置かれていて、ほのかな灯りに照らされている。そこに置かれた、人形や燐寸箱や割箸などは、この厳粛な空間の中で、ただの物ではなく、いのちをあたえられ、新たな相貌をあらわし、息づいているかのようにみえる。ポーランドの人形劇研究家ヘンリクユルコフスキがいう物体の「乳白光化現象」のごとき効果が現れている。うすやみのなかで、すでに準備を終えた役者が、マネキン人形のようにじっと佇んでいる。そうしてそれらが、劇場内を日常と違う、聖なる世界へ変えるのだ。
 江戸の芝居小屋もこんな祝祭空間だったと服部幸雄は書いている。《劇場の正面と、劇場を取り巻いて軒を並べる芝居茶屋の店先は、ありとあらゆる数寄を凝らした〈物〉によって飾り立てられ、いやがうえにもにぎにぎしく、はなばなしい聖空間を作り出していた。》(『大いなる小屋』) そういえば浅草の平成中村座も、にぎにぎしく、はなばなしい空間だった。数年前、国立劇場で、江戸の顔見世狂言の形態を復活させて上演したことがあった。開演前にはおめでたい三番叟が舞われ、開演後は、脇狂言というまためでたい小芝居が演じられ、そのあとさらに序開きという独立した導入部が演じられる。そのあとには役者陣による口上が述べられ、たっぷり一時間以上たってから、ようやく本編に入るのだ。こうした息の長い形式は、祭祀からうけつがれ、発達してきたのかもしれない。劇場空間に俺らが切り捨ててきた非日常的な時空、原初的な祝祭の宇宙がかたちづくられる。そうした宇宙の生成を、太陽劇団は目指しているように思う。
 舞台脇の下座は、まるで民族博物館の陳列室のように、たくさんの楽器がところせましと並べられている。こんなものが楽器なのか、とおもうようなものまで。舞台は、能舞台、というより、もっと古式な神事芸能の舞台のようで、左右両側から、中央をとりかこんで橋がかりが渡されている。後方の橋の下から、無色の菖蒲の葉のつくりものがつきでていて、どこか尾形光琳の絵をおもわせる。その上からは、布が張られれてい、そこには牧谿をおもわせる墨絵が描かれており、場面ごとにはぎとられるようになっている。鳴り物が奏され、やがて文楽人形そっくりな俳優が、黒子に抱きかかえられて登場。そのうごきには、おもわず息を呑む。じつにみごとに、文楽の動きが再現されているのだ。いつぞや、現代のドガといわれる画家、ロバートハインデルが能と歌舞伎を題材に描いた絵をみたが、踊り手の肉体の緊張の一瞬を切りとるこの画家の筆力も、ぶあつい衣裳にかくされた肉体とあらかじめ静的な動きを描きだすことには、無残なまでに失敗していた。けれどもこの劇は、徹底的な観察と鍛錬とにより、人形の動作を表現する。顔面を塗りつぶし、表情を消し、黒子とともにギクシャク動く。グフフ、グフフ、と太夫の語りににせた笑いには、思わずにやりとしてしまう。
 フィリップジャンティーが人間と人形を異質なものとして共演させるとすれば、ムヌーシュキンは人間を人形に近づける。人形を模することは、アジア、とりわけ東南アジアではよくおこなわれている。また西洋近代の演出家にとって、俳優を人形化することは、舞台芸術を完成させるための魔法のような欲望だったにちがいない。そんな理念の完成品といっていいほどの演技を、この劇の俳優達はみせていた。黒子に抱えられ、宙を舞う。退場するときは、前を向いたまま、蝦のようにするするとさがってゆく。堤防の上の鼓手たちがおおぜい、ゾロゾロと舞台に這いあがってくる場面の壮観さ。水面をあらわした布を手に取って、振りまわしながら腕に巻きつけ、巻きしぼってゆくさまの美しさ。そこには、文楽だけでなく、さまざまな演技の型がみてとれる。演奏家もいろんな楽器をとっかえひっかえ、さまざまな音色を生みだしてゆく。鼓手たちのからだにはおのおの一本の紐が結ばれてい、頭上にはひとりの黒子がそれらの紐を束ね、あやつっている。この場面は、糸あやつり人形のようにもみえ、また猿廻しのようにもみえる。鼓手たちによる打楽器の演奏は韓国の農楽が、演者が宙を舞うさまは西洋古典舞踊が、本水につかっての演技はベトナムの水上人形劇が、参考にされているようにおもう。ふたむかしまえ、ひとみ座の宇野小四郎は《日本で人形劇をやることの幸せを、日本人にはなかなかわかってもらえないのではないかと思う》と書いていた(『現代に生きる伝統人形芝居』)。「ライオンキング」のジュリーテイモアやムヌーシュキンが、アジアの伝統人形劇の方法を自家薬籠中にしているのをみると、世界で最も人形劇の充実している(それは文楽だけではない)日本の文化が日本人にまるっきり知られていないのを、とっても残念に思うのだ。

 みていて俺は、開演前、楽屋の隅で女性演者がうつむいて、片方の脚を、膝から糸でひっぱられる動きを想像しているように、いくどかそっと持ちあげていた姿をおもいだし、そこからさらに、かつてみた別の舞台を連想する。去年のアリスフェスティバルで上演された、広東実験現代舞団の「声色形」のなかで、こんな場面があった。
 よこたわった女の鼻先に、男が一本の糸でゆわえつけられた林檎をぶらさげ、近づける。林檎はみずからの重みに耐えるかのように、回転を続けている。女はその果実を求めるように、顎を突きだし、追いかけ、男は果実を奪われぬよう、また女をそそのかすように、そっと糸をあやつってゆく。女の顎と回転する林檎は、みえない糸で結ばれて、女は林檎にあやつられているかのようだ。女の顎は林檎に寄り添うように、林檎は女をせせらわらいはぐらかすように、ともにゆっくりと移動してゆく。細い糸で結ばれ、いまにも切れそうなほど回転を繰り返す、寓意性をたっぷりふくんだ禁断の木の実。それをうごかし、それにうごかされることが、一対の男女のあやうい関係を露呈するのだ。それならば「堤防の上の鼓手」の特異な二人一役は、いったいどんな関係で繋がれているのか。
 ここで劇のお話をみてみよう。舞台は昔の中国。領主の甥によって森の樹が切られ、そのために洪水が起こりそうになる。被害を最小限におさえるには、堤防の一部を壊し、水を流してしまわなければならない。都を救うため農村地帯に水を流そうと主張する人人と、反対する人人がせめぎあい、さまざまな思惑が交錯し、権力欲や陰謀や愛や裏切りや復讐のはてに、殺し、殺され、都は水没し、登場人物のほとんどが死んでしまう。諫早湾や脱ダム宣言をめぐる議論(環境問題)、中東をめぐる議論(南北問題)につうずる人間の愚行が、ここには寓意されている。
 ロランバルトは、文楽は身ぶりと行為を分離し、芸と労働を二つながら同時にみせる、という。そしてそれが、ブレヒトの強調する距離の効果に一致する、と。あやつるものとあやつられるものは互いに変換し、黒子役が人形役となり、人形役が黒子役になったりする。寺山修司はどこかで、人間は社会状況にあやつられる人形のようなものだ、といったことを書いていた。人間は、運命などでなく、人と人との関係によって動かされる。人はあるときは人をあやつり、また人にあやつられる。じぶんではわけもわからないまま、戦場に駆りたてられ、殺しあったりする。現在の緊迫する国際情勢とおなじ状況が劇の物語にあらわれているけども、それはまたこの二人一役という形式にも、あらわされているのではないか。《主体と対象との、みかけの矛盾と二律背反は、まさに「操作するもの」が同時に「操作されるもの」であり、「操作されるもの」が同時に「操作するもの」であるという、相互に排除しあっていると同時に相互に補償しあっている真の構造的連関がそこにあることを了解することによって解決される。》(北沢方邦『構造主義』)
 古い中国というと、史書にでてくる、治水の功で王位を譲られた禹の物語を思いだすことができる。ながらく歴史上の人物と考えられていた禹を、白鳥庫吉は地の神ではないかと指摘した。白川静は魚型の神としている。治水を祈るために祀られた神が、人格化され、いつしか実在の人物と考えられるようになったのだろう。今この物語が「堤防の上の鼓手」の基だと仮定しておく。禹は山に穴をあけ、水を通したが、劇ではこうした土木工事こそが災害の源になったという、現代的認識から出発している。バルトはこういう。《人形遣いはかくれていない。それならばどうして、人形遣いを神としたいなどとあなたは思ったりしようか。《文楽》にあっては、操り人形はどんな糸によっても支えられていない。したがって、暗喩がなく、神がない。操り人形は被造物を猿真似するのではない。もはや人間は神の両手のあやつる操り人形ではない。》(『表徴の帝国』) クライストやジャリやクレイグが想起したのは、天上から持ちあげられた糸あやつり人形だった。しかし人形遣いはかくれていない。神ではなく、露出した人が人をあやつる。神よりも、自然こそが重要視されなければならない。「大地という船があったのに、われわれはそこに穴をあけてしまった」との台詞にその思想が集約されている。
 神が歴史に組みこまれ、人間とされることは、呪術からの解放だ。としたらこのたびの劇場空間の持つ祝祭性・原初性は、世界の再呪術化といえる。そうした世界を、自然と人人が神の媒介なしに共存できる世界を取り戻すために、ブレヒトの距離の効果が使われる。人間が人形となり、あやつるものとあやつられるものにわけられ、それが異化の効果をいっそう引きたてる、はずだった…? しかし演技のあまりの完成度の高さは、みるものに浄化をあたえてしまうのではないか。美的陶酔のなかに、距離は同化され、雲散霧消してしまう。祝祭性は劇場の内部に閉じ込められ、自己完結する。観客の脳裏には、舞台の完成度だけが残り、充実した思い出以外は消えてゆくだろう。異化をつきつめると浄化に転ずるという「美的演出の罠」のごときものに嵌まってしまったのではないか。もっとも以上の考察は、革命の演劇という、太陽劇団への俺の勝手な思いこみを反映した産物にすぎないのかもしれないが。




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