劇評12 立体映像劇と人形劇

たぶん2002年ごろ、自分のHPに発表したもの

  1立体映像劇「オルフェオ」
 カナダのバーチャルパフォーマンス「オルフェオ」(三月二日 赤坂ACTシアター)は、立体映像を舞台上で動きまわらせた、新しい人形劇といえるかもしれない。ほら、「スターウォーズ」でR2-D2だっけ? あれが立体像のレイア姫を映写して、シャブ中のレイア姫が「たーすけてえ」っていう場面(だったかどうかぜんぜん記憶ないんだけど)みたとき、やっぱ宇宙は広いさー、おらだちがいきてるあいださ、こげなことがこの地球上でもできんだべかなー、なんておもったわけだけど、あんなん舞台でみられるなんて、さすがにおもわなかったねー。
 「4D ART」と名づけられた本作の内容はオルフェウスの神話を現代物にしていて、死んだ女が実体を持たない虚像となって(立体映像=幽霊)、恋人である男の前に現れるのだけど、正直いうとこの立体像は客席からみていて平面的、つまりただの映像と変わらないようにおもえる。その意味ではまだまだ四次元芸術とよぶにはこなれていないと感じるけども、女が死を迎える瞬間、生身の演者とその映像が重ねあわされはげしく動きだすとき、ふたつの像のびみょうなブレが、うつくしく立体的に、まるで心霊現象をみるような視覚効果として輝く。この場面をみると立体映像劇の表現としての可能性はまだまだこのさき十分に展かれていると思う。ほかにも幕と影を使った場面は、同じカナダのルパージュの傑作「針と阿片」を思い起こさせすばらしい。もしこれらの見せ場を、物語劇でなく、ダムタイプみたいな表現行為にしていたら、もっとおもしろい舞台が出来あがるんじゃないかとおもうんだけど。

  2愛らしさと無気味さと
 人形劇をみる悦び、というのは、共生する悦び、といいかえてもいいかもしれない。異質なものの出会ってゆく場がそこにある。せまい意味で人形劇とはいわないだろうけど、去年俺がみたもっともすてきな舞台はゲイルラジョーイの道化劇「スノーフレーク」だった。ゴミ捨て場にすむ浮浪者がすてられた小さな人形を歓ばせるために、さまざまなガラクタと戯れ、いのちをふきこんでゆく。ここには異質なものとの交歓がある。どんな見捨てられたものにも、存在する意味があるという事実を教えてくれる。カナダは目の劇団による人形劇「スターキーパー」(八月十八日 日生劇場)も、そうした悦びをあたえてくれた。地上に落っこちてきた小さな星を空へ戻してあげようと、やさしいイモ虫が奮戦する。この人形は、上半身が人、下半身がイモ虫で、ちょっとレイハリーハウゼンの映画にでてくる怪獣みたい。他の人形もどこかかわいらしいけれど、どうじに無気味さをたたえている。去年みた、グレゴリーバーサミアンの立体彫刻アニメ(映画じゃない、ほんとに彫刻が変身するようにみえるのだ)やヘリドノのわずかに動く伝統的人形も、無気味さゆえに、衝撃的だった。子供はかわいいものとともに、無気味なものも大好きだ。ちっちゃな女の子人形と巨大な人形があらわれて、大きいほうの人形のお腹の幕がするする開くと、そこは舞台になっていて、クモが八本の足でタップダンスを踊る。みんな愛らしさと無気味さが同居してる。それは害虫・益虫なんて区分けして切り捨てる精神とは無縁だ。人はいつかそのことを忘れて、自分の価値観だけを絶対化してしまう。現在の「演劇」など、そんな絶対化の産物でしかない。人形劇とは、人間のためだけの演劇と違った、人と物との、他の生き物との交歓から生まれたものなのだ。「スターキーパー」のお話のほうはといえば、小さい星はあちこちを転転としたあとで、くたびれたおばあさんの手に入り、その晩おばあさんは星といっしょに天にのぼっていくという、ちょっぴりかなしい結末でした。でもきっとおばあさんは星星といっしょに生きているのだ。

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