劇評1 猫ニャー 猿之助 チャクプン

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ふりかえれば、もう十年以上にわたって演劇の批評を書いている。劇評講座に通っていたころに書いたものや、自分や知人のHP・ブログなどに載せた文章もかなりあるけれど、ほとんど閉鎖されてしまったため、埋もれたままになっているのだ。そこでこのたび、それらを公開してみたいと思う。


   娯楽は変成する
 七月の芝居からまず猫ニャー「弁償するとき目が光る」(七月十一日 東京芸術劇場 小ホール2)をとりあげよう。猫ニャーはナンセンスな笑いを身上としている劇団だが、確かにその世界は徹底した無意味さに貫かれている。何かを弁償するときに目が光ってしまうという悩みを抱えた若い女性が、とりあえず反日常的存在として登場するのだが、それをとりまく状況はさらにいっそう異常なものだ。冒頭の場面は精神病院のはずなのにバスケ選手が激しい練習をしながら乱入してくる。なぜか? インターハイが近いからだ。ほかにも女を治療するため盲目の納品業者黒沢のもう一つの人格である天才精神科医・火柱泰三を蘇らそうとするのは四十五分後に火星に激突する宇宙船の中だし、蘇った火柱が女の治療をするのはさえない中年男と遊園地で逢引中の離婚歴のある子連れの中年女の口の中だ。
 かつての健康や遊気舎といったモンティパイソン系劇団は物語からとめどもなく脱線し独立したコントを生みだしつついつしか物語に戻るといった美しい構造だったけれども、この劇ではコントと物語が並立し、完成度などかまわず綯交ぜられる。日常が非日常へ変化する不条理ではなく、はじめから日常が存在しないのだ。(漫画でいうとケラが吉田戦車の『伝染るんです。』ならブルースカイは榎本俊二の『ゴールデンラッキー』か。もっとも俺はもっともデタラメな時代の健康を知らないから話にならない) シュールとかナンセンスとかはもともとモダンな笑いだと思うけど、八〇年代のシュールギャグはポストモダンの文脈に置かれ、インテリが先端ぶってるだけでちいとも面白くないという印象があった。松本人志あたりからナンセンスやシュールを身についた笑いとして駆使できる才能が現われはじめたと思う。そして猫ニャーの世界となると、日常や意味がハナから存在しない、てか、あろうとなかろうともうどうだっていいのだ。
 弁償性発光神経症や多重人格から劇的世界を意味づけしていくと猫ニャーの魅力が失われてしまいそうなので次へ移ると、歌舞伎、なかでも鶴屋南北は「もどり」「やつし」といった作劇術を駆使して、近代的理性では捉えきれない極めて独自の世界を作りあげている。市川猿之助主演「伊達の十役」(七月十七日 歌舞伎座)がじつは南北作ではなく奈河彰輔の創作であってもさほど問題あるまい。南北でなくても、南北的であれば事は足りるからだ。
 南北的とは何か。それは伝統劇・近代劇・前衛劇と、どんな領域をも時代をも越境し、浸透してしまう劇的エネルギーのようなものだ(そのセリフ表現から考えれば平田オリザも南北的だ)。たとえば主君のために義理の弟与右衛門に殺された高尾太夫が霊となって妹の累にのりうつり、やむをえず与右衛門はこの妻をも手にかける、という場面。ここでは封建的原理に身をひたされた与右衛門、さらに古層のシャマン的原理に囚われる累、同じ層にありながら近代的な個人原理を主張する高尾の霊という三者を一人の役者が早替わりで演じ分けることで、トランスパーソナル感覚とも呼ぶべき劇的効果をあたえている。ほかにも女形の政岡をたっぷり演じたかとおもうや荒事で演じる男之助となってセリあがり、まもなく悪役仁木弾正となって宙乗りを勤めるというさまざまな演技を取り混ぜた効果をみるにつけ、自身のいう「停年」を間近に控えてなお苛酷な芝居を演りつづける猿之助のすごさに感動を覚えるとともに、ミュラーやベケットやアルトーよりはるかに恐るべき作家がそのような役者に力をあたえつづけていることに、さらなる感動を覚えるのだ。
 ところでアントナンアルトーも近代的理性からは既知外として排除される人格だったが、アルトーに衝撃をあたえたのはほんもんのトランスパーソナル演劇であるバリ舞踊だ。バリの宴会芸チャクプン(七月二十一日 青山円形劇場)はしかし、充分に醒めた意識で演じられているようにみえる。極めて儀礼的な詩の朗誦から始められる芸能が、一変してにぎやかな口ガムランとなり、表情豊かに隣や向かいの演者同士ちょっかいをだしあい、坐ったまま紙相撲の人形のようにトコトコ移動しながら演技合戦を繰りひろげるのだ。「俳優は肉体を楽器のように扱う」ってジャンルイバローか誰かがいったように記憶してるけど、ここではまさに演者が楽器となる。舌先だけのガムラン演奏でなく、肉体そのものが演奏される。そこで演じられる無言動作や舞踊の型は、堂にいったものだが、彼らがやると万作芝居のような滑稽さを醸しだすのだ。これは日本でいえば神楽における太神楽にあたるだろう。小沢昭一なら大喜びするんじゃないか。
 それでも民族芸能が宇宙を開示した聖なる儀礼でないことに我慢ならない人物はいるらしく、七月二十八日の朝日新聞に間宮芳生はこう書く。《わるく通俗化した演芸ショー》《面白くつくり変えられて(略)持ち出される「エスニック」なものが、エスニックな文化の、もともとの暗号の世界をきずつけずにおかないことがつらい。》 そんなら間宮がナバホ族の神話を謡にしたりするのは面白くないから反通俗的でいいのか。猫ニャーの笑い、猿之助のケレンと同じくチャクプンの滑稽も通俗的でありながら先鋭な表現
 (枚数制限のため提出時の原稿はここで終わっている)

 付記 これは1999年に某劇場で行われた劇評講座に提出した、自分が一番初めに書いた劇評。三本の劇をとりあげ批評せよ、という課題だった。原稿用紙5枚分書くのに二週間かかった記憶がある。

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