劇評2 カンパニーエアソーラ「ヴォワラ、ヴォワラ」

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仔猫のケール君

  後向きに歩く
 からくり人形のように小刻みな歩みの女性たちが、舞台上をすすんではもどり、すすんではもどりする。ときには後向きのまま中央までやってくる。三組七人の女性がかわるがわる歌い、踊る。男性の楽器奏者が舞台脇に座る。
 カンパニーエアソーラ「ヴォワラ、ヴォワラ」(十月二日 シアターコクーン)は三つの孤立した世界からはじまる。一つは王女たち。四人の女性が、舞楽のようにゆったりと舞う。二つ目は自然。村芝居の歌で表現される。三つ目は思想。木製のちいさな打楽器をうちならしながら歌う。王宮から逃げだした王女たちが、それぞれの世界と遭遇する。それは自由と共生を求める旅だ。古来ベトナムでは、詩の形で考えを村から村へ伝えていったという。孤立していた世界がたがいに行き交い、自由を深めていく。小刻みな歩みは農耕文化特有の摺り足かもしれないが、自由を奪われた女性たちの足枷のようにもおもえる。
 みてると、自然/文化、民衆/宮廷、女/男、東洋/西洋、伝統/現代といったいくつもの相対する二つの原理が浮かんでくる。
 ベトナムの古い詩で、はなればなれになった夫をおもう妻はつぎのように嘆く。

  ただ、水と魚との楽しい集まりを望むだけで、
  水と雲という二つの方向に遠く離れていようとは、思ってもみないことです。
  ――「征婦吟曲」

 水と魚のように、交わること。共生し、戯れること。共生は機械のうちにあるのではなく、戯れは文字のうちにあるのではない。それは身体表現として行われなくてはならない。舞いのなかには左右の手が交差される振りが、いくどとなく繰り返される。やがて登場人物すべてが交じりあい、笑いあい、語りあう。新しい楽器、チェロがかきならされる。

  囚人出去或為國   牢獄を出る人は国を築くこともできる
  患過頭時恰見忠   不幸の中で耐える人は忠誠をあかしだてる
  人有憂愁始点大   祖国を憂える人は優れた人間であり
  籠開竹閂出真龍   牢獄が開けばたちまち龍がとびさる 
  ――ホーチミン

 チェロ演奏のあと、現代衣裳に身を包んだ女性たちは小さな木を持って舞う。それは新しい生命の始まりのようだ。しかしすぐ、木はさかさまに纏められ、女たちは身悶える。
 自由・平等・友愛の精神が陵辱し、その精神をうけついだ自由の女神は枯葉剤や焼夷弾を撒き散らし、解き放たれた龍は新たな抑圧となってのしかかる。やがてなだれこんでくる資本主義は自然と人間を食いつくし、荒廃させるだろう。…と予言者めいたことを書いてしまったが、この舞踊の終わりのほうをみながら、俺はこんな暗い印象を抱いた。そのあいだじゅう、女たちはよこたわり身悶えつづける。それは未だ来ぬ自由と共生を孕んだ女たちの陣痛のようだ。まだだ、まだ…と、俺には舞いのなかからどうしても希望がみえてこない。最後の太鼓の連打は、民衆と宮廷の二つの音楽初めての共演で,エアソーラは共生の表現のように語っていたのだが、俺には戦闘ヘリの爆音のように聞こえた。
 本当の自由と共生はいかに可能か。

 ベトナム生まれのエアソーラはフランスで舞踊表現をはじめ、のちベトナムに戻り、伝統民族芸能を調べ、掘りおこし、地元の人達とともに生き、共同作業として新しい舞踊を創作しているという。正直いってしまえば四年前にあいついで来日公演したベトナムの雅楽とチェオ(歌芝居)をみたときほどの面白さはなかったのだけど、彼女はつぎのようにいう。《封建的なくびきからは自由になったにもかかわらず、ダイオキシンの苦しみからは自由になれないベトナム。けれども現在の感受性はかつてないほど自由になったのです。》 経済の自由化が情報の自由化をもたらし、感受性を自由に、豊かにしてゆくことは確かだ。だけど同時に、大量に使いはたされる物や情報が、感受性の摩滅と腐敗をもたらすことも確かだろう。前線と解体しか興味を持たない現代思想家や、伝統と言う記号を消費するだけの保守主義者と違って、ベトナムの森で育ったエアソーラは、人と人との結びつきを、そして人と自然との結びつきを、真摯に追求しているようだ。芸術は作品として孤立して存在する世界ではない。自然と人間にたいする真摯な追求があれば感受性も表現行為も容易には退廃すまい。うしろむきに、小刻みに歩み、一進一退を繰り返す。作品自体よりそんな彼女の生き方に、勇気を貰った。

 付記 これは二番目に書いたもの(1999年)。エアソーラはその後は来日してないはず。

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