劇評4 九〇年代カルト演劇論

以下は2000年に某劇場の劇評講座で口頭発表したものの文章化。現在では敵にあたる某劇評家の名前は伏せた。

 前回の講座で、平田オリザについて話すといったのですが、西○さんがイヤな顔をされまして、「平田なんてやらないでB級C級演劇の話をしろ」といわれましたので、変更して「九〇年代のカルト演劇」と題してお話をします。以前この講座の合評会である人がゴキブリコンビナートのことを書いて、これはアングラだとか、ここにあらわれるアングラ性はとかいっていたら、別の人から「アングラって何ですか」ときかれて困った、なんてききまして、じつは私もアングラのこと知らないんです。なんとなく、頭ツルツルで白塗りにして、涎たらしてウェーっていってる、そんなイメージしかありません。でもゴキブリコンビナートをみたとき、これがアングラだとは思わなかった。「粘膜ひくひくゲルディスコ」という舞台で、チラシがあまりに素晴らしいうえに、西○行○という高名な演劇評論家の褒め言葉も載ってまして、これはぜひみなくては、と思ったのです。じつは西○氏の推薦文は無断掲載で、それでモメたらしくて、ゴキブリのHPに、われわれは小劇場界にたくさんの敵をつくってしまったとして、その敵のひとりとして、評論家の西○行○氏の名前がありました。まあアングラといえばアングラっぽいし、彼等自身アングラだといってるのですが、なんというか、イメージとしてのアングラですね、さっきいったような。あとそういうアングラっぽさをみせてる劇団として思い浮かべるのが、ハイレグジーザスと、九〇年代前半の遊気舎です。三つの劇団に共通する特徴をあげてみると、まずアングラっぽさがあって、異様でダークな世界を展開してるけど、それを笑いにまぶしてる、パロってる。大槻ケンヂがどっかで書いてたんですが、以前のアングラ系ロックバンドはいかにもっていう文学青年がやってたんだけど、いつかそれが体育会系のノリになっていったそうです。演劇にも同じことがあてはまるんじゃないでしょうか。それから内臓の感覚、というか、ゲル状というか、ベトベト、ネチョネチョ、ヌメヌメ、といったかんじがあって、プリンを口移しで伝えていったり、ブリーフにうどんやコンニャクをつっこんだり、そんなことをやるわけです。死体とか奇形とか汚物とか直接的な下ネタとか、とにかくグロいものが大好きみたいなとこあります。お下劣な肉体芸なんていわれて、よく裸になります。全裸にもなります。快楽亭ブラックというカルトな落語家がいて、この人は寄席若竹でSMショーをやって出入り禁止になったり、立体落語と称して全裸のAV女優を高座にあげたりしてますが、私が通ってたダメ大学でも学園祭になると落研の連中が全裸になって尻にはさんで卵割ったりしてました。あとゴキブリのDr.エクアドル、ハイレグの河原雅彦、遊気舎の後藤ひろひと、三人とも歳が三十初めぐらいで、私も同じ世代になるのですが、そんなこともあって感覚が似てるように思います。ここらへんの劇団を、アングラとは違った、九〇年代固有のカルトカルチャーとして現われた、カルト演劇と仮に名づけておきます。たぶん現在のカルト文化の担い手達の多くも三十代じゃないでしょうか。で、今日はこの世代に共通する精神構造を探ってみたいわけです。
 映画の話をします。私が子供の頃、「ジャンク」という映画があって、死体とか、人が死ぬ瞬間を写した記録映画で、かなり話題になって、私も四回ぐらいみました。とてもいい映画でした。とうじアメリカ映画とされてたのですが、じつは日本で製作して輸入されたようにみせかけたバッタ物だったと、いまでは明らかにされているそうです。「ジャンク」は劇場公開されたのは二本ですが、シリーズ化されてビデオは五作ぐらい出てて、そのうえ「新ジャンク」やら「スーパージャンク」やらいっぱいあってまぎらわしいのですが、二つの方向性に別れて、ひとつは人が死に至る状況に重きを置いて、物語性の強いヤラセ映像になります。「ジャンク4」だったかには、スカイダイビング中にパラシュートが風に飛ばされワニ園に落下するなんて、ぜったいヤラセとしか思えないすてきな死に様をみせてくれます。八〇年代に日本テレビで「決定的瞬間」という番組があって、よく山海塾の墜落死とかやってまして、あとで「ザショックス」とかいった映画になりまして、電気椅子での死刑執行場面なんかありましたが、どうにもヤラセっぽくて、「ジャンク」でのなまなましい電気椅子場面とは比べものになりませんでした。もうひとつはヤラセでなくひたすら本物の死体を映しつづける、「デスファイル」みたいな方向。こっちはきわめて九〇年代的だとおもいます。少年時代に「ジャンク」で精神形成したわれわれは、ひたすらに死体に飢えていた。いい死体写真がみたかった。私は九〇年代初頭の大学時代、よく神田の三省堂書店でカラーアトラスという、実習生向けの、しかしマニアにとってもこたえられない、解剖学や法医学の本で死体写真をみていたのですが、ちょうど、法医学者上野正彦の『死体は語る』という本が話題となり、解剖学者養老孟司や弟子の布施英利が死体について語りはじめた、死体解禁ってかんじのころでした。九〇年代も終わり近くなると、世紀末を掛け声に、『危ない1号』とか『鬼畜ナイト』とか『世紀末倶楽部』とかいった雑誌本が出されて、カルト文化が蔓延し、以後どんどん良質の死体写真が目にふれるようになっていきます。内臓や脳がモロにとびでているような。これはたぶん、「ジャンク」世代の子供が成長し、出版社に勤めて、自分の長年の夢だった、極上の死体写真を満載した本を作ってしまったからではないでしょうか。私が死体写真愛好者だということはあくまで隠しておきたいので、これ以上の話はやめときます。
 また映画の話ですけど、七〇年代当時の子供はみんな映画好きで、やたら映画みてました。ハリウッド超大作なんていうやつ。で、いま三十代ぐらいの映画ライターと名乗ってる連中が『映画秘宝』あたりでやってる仕事のひとつに、六・七〇年代の大作映画がいかにC級だったかを検証する、というのがあります。映像技術ってのは日進月歩で、八〇年代の映画もいまだとずいぶん古臭くみえます。なかでももっともすぐ古びてしまうのが六・七〇年代の娯楽大作じゃないでしょうか。七〇年代の子供は不幸です。自分たちが超A級大作映画だとおもって心躍らせてみてたのが、いまからするとじつはC級カルトだったんですから。これはたとえていえば、自分がずっとお母さんだと思っていた人が、成人してから気づいたら、じつはそれは女装したお父さんだったようなものです。それでもうわれわれの世代はC級物しか受けいれられない感性になってしまっている。たまには小難しいフランス映画でもみようとか、小粋なフランス映画でもみようかと思っても、三分以内に眠くなる。そのくせ「女刑務所アマゾネス」なんて映画があると、夜を徹してもみてしまう。まさにジャンキーなわけです。考えてみると、今おマヌケ映画とかトホホ映画とか書いているやつがやってるのは、じつは精神分析なんじゃないかとおもいます。自分はもう腐ってしまってて、そのこともちゃんと知っている。そんな自分の感性がいつどこで歪められたのかを、過去にみた映画をつうじてさぐりだす、自己確認の作業なのではないか。アメリカではこういうC級物をキャンプというそうですが、スーザンソンタグという批評家がこんなことを書いています。《ものは古くなったときにキャンプ的になるのではなく、われわれとそのものとのつながりが弱くなり、そこで試みられていることが失敗しているのにわれわれが腹を立てず、むしろそれで楽しむようになったときに、キャンプ的になるのである。》(『反解釈』) たしかにそうで、超大作なんてふれこみにダマされて映画館まで足を運んで、千数百円払ってみたらものすごい駄作だったとすると不愉快だけど、三百円ぐらいでビデオ借りてきて寝転がってツッコミ入れながらみれば、しょうもない映画でもけっこう楽しめるのです。
 それでアングラの話に戻るんですけど、こうしたC級ジャンキーにとってアングラはまさにキャンプとして現われるわけです。六・七〇年代だと既成の演劇や体制にたいする異議申立てとかいう意味をアングラは持ってたんでしょうけど、そうしたつながりが弱くなる。頭ツルツルで白塗りにして涎たらしてウェーっていってたら、ふつう笑うでしょう。そんなかんじのアングラもどきを、というか、アングラへのニヒルなオマージュを、八〇年代のワハハ本舗的お下劣宴会芸に結びつけたのが、遊気舎やハイレグやゴキブリではないでしょうか。かれらもまた、自分が骨の髄まで腐っていることを知っている。アングラの精神を、もはや嘲うことしかできないと諦めているのです。ここで「粘膜ひくひくゲルディスコ」がどういう内容かと申しますと、かつてシャム双生児だった奇形の男が、生まれてこなかった片割れの弟を捜すため、母親の体内に潜りこんでいく、というもので、これはまさしく、自分の歪みを過去を遡ってさぐりだす、自己確認の旅の物語といえるとおもいます。ひょっとしたら、アングラも九〇年代のカルト文化を生んだ歪みのひとつになるのかもしれません。とにかく、後藤ひろひとはもう凡庸な物語作者になり、河原雅彦もすっかり有名人になってしまった現在、ゴキブリコンビナートはまだ無名に近い存在で、だからこそいまもっとも面白く、いまのうちにみておくべき劇団ではないかとおもいます。

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