劇評28 クロカミショウネン18

某氏のブログに掲載したもの(現在は閉鎖)

モザイクのなかから浮かびあがるものは?
クロカミショウネン18「モザイク。」

 というわけで、二ヶ月にわたって開催された佐藤佐吉演劇祭の無料モニターを務めたわけだが、モニター諸氏のあいだで、乞局「汚い月」がやけに評判いいのが気になった。いや、けっしてつまらなくはないけれど、けっきょく終ってみればただの幽霊話じゃねえか。さいきんやたら上映されてる、タイや韓国の恐怖映画みたいな。そこに死者と生者の関係がきちんと描かれているともおもえない。不条理劇というほどのこともない。全体的に宙ぶらりんだから、妙な姉妹の個性だけが光ってみえた。
 「シックスセンス」という映画は、小林信彦みたいな地獄の見巧者にとっては駄作なのかもしれないけど(あのオチはたしかにすぐわかる)、幽霊映画のなかでは出色のものだとおもう。ここには、死者の言葉を聞き取る、巫者となるべき少年がいて、死者を救うことが生者を救うことに繋がっている。怨念の劇でない、救済の劇。恐い恐いでは終わらせない、人と人との結びつきを感動的に描いている。
 さて、クロカミショウネン18「モザイク。」だ。劇場入口からして、葬儀場の雰囲気を再現している。二時間後に葬儀を控えた一家に、つぎつぎと予期せぬ出来事が降りかかってくる、というお話。ひとつこれらの出来事を整理してみる。

 まず冒頭。母の葬儀を目前に、挨拶文を考えている町会議員秋彦に、娘の香が、交際しているヘビメタ青年が手伝いに来ることを認めさせようと懇願する。秋彦は言を左右したあげく、ヘビメタの扮装のまま来いと吐き捨てる。
 劇団名も公演名もおぼろに見にいった俺は、さいしょのうち劇の題名が「クロカミショウネン」だったと勘違いし、ヘビメタ青年が髪を黒にするか金にするかの騒動を描いたものだとおもった。だがそれからもっと珍奇な騒動が持ちあがってゆく。

 家長の唯吉は、妻に先立たれた悲しみから部屋に閉じこもっている。心配する家族にたいし、葬儀屋は、もし唯吉が妙な言動をみせても無視すべきだと忠告する。それにしたがって家族全員が唯吉に見ざる聞かざる言わざるを振舞い、そのほかの誤解もいくつか重なって、とうとう唯吉は自分の姿が皆には見えない、すなわち、自分が死んでしまったのだとおもいこむ。
 この状況にはかなり無理がある、との批判もあるが、俺には面白かった。まさに逆シックスセンスじゃないか。この状況が物語の大きな鍵になり、このさき展開してゆくのだとおもった。だが事件は別個につづく。

 やがて手違いから、秋彦の浮気相手のホステス、ヤンバルクイナこと幾稲が本命の恋人同伴で登場。幾稲が恋人に、秋彦を自分の兄と説明していたため、秋彦の妹とその夫を巻きこんだカン違いの嵐が吹き荒れる。
 ここもかなりうまい。絶妙な人物の出入りと人違いの台詞による、三谷幸吉の名作「君となら」を彷彿させるやりとりが、作者の技巧の真骨頂といえ、この劇の一番の見所となっている。これで打ち止めか、とおもったら、まだ騒ぎは収まらない。

 つぎにテレビの人探し番組の制作者があらわれ、唯吉の隠し子と訴える少女を連れてくる。少女は自分たち母娘を見捨てた父を恨み、復讐を口走っている。秋彦らは一計を案じ、唯吉が死んだことにし、テレビ制作者演出による手軽なニセ葬儀を行ない、少女を追い返すことにする。
 さすがにここまでくるとややうんざりしてくる。だいたいこれらの逸話が重なりあいながら進行し、なんとなくカタがついて芝居は終る。秋彦は怒ったとき顔が真っ赤になるのはすごいが、みてるうちあんまり西村雅彦にかぶりすぎて萎える。ニセ葬儀のあと「泣き方工夫してみたんだけど」って、サンシャインボーイズ「ショウマストゴーオン」での西村の台詞「歩き方工夫してみたんだけど」まんまだった。とはいえ台本・演出とも充分に面白く、巧み。幸吉ほどではないとしても、作者の腕は確かだ。

 でも、さらにいうなら、やっぱり不満は残る。いろんな挿話を盛りこみすぎ、そのせいで捌ききれていない、という感がある。冒頭からでてくるヘビメタ君、彼はいったいどうなったかといえば、とりあえず顔をみせはするが、混乱のなか印象は薄い(ガタイの役者がちっともメタラーっぽくないこともある)。逆シックスセンスのジジイ、彼がどうやって物語にからんでゆくか、どうやって正気を取り戻すか、が楽しみのひとつだったのに、舞台にあらわれないところで、いつのまにか正気に戻ったと語られるだけだ。隠し子の少女、彼女はニセ葬儀を見抜き、それでも捨て台詞ひとつのこしただけで立ち去ってしまう。しかも唯吉の娘だったというのはどうやら間違いだったらしい、とほのめかしたところで幕。見てるほうは、なんじゃそりゃってかんじになるのではないか。この種の劇は、すべての問題をきっちり解決させて観客に浄化をあたえることが務めだと思う。
 死んだ婆さんの存在感がなさすぎる、という批評は鋭い。悪魔やビルマ僧まで登場するドタバタは、祝祭性をきわだたせてはいるものの、はたして葬式という設定がほんとうにこの劇に必要だったろうか、と見渡すと、ほとんど別の状況でも成立する芝居だったような気がする。葬式の場は、おそらくたったひとつ、自分が死んでしまったと思いこんだ人間、という逆シックスセンス的状況を作りだすためのものでしかないのではないか。もしそうだとすれば、自分は幽霊だと思っている爺さんの、その境遇こそがこれらの混乱・難事件を解決する鍵となる、という物語が望ましい。モザイクを凝視したとき浮かんでくるのは、唯吉の幽霊でなければならないのだ。

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