演劇随想 演劇エコロジー論

2005年 得体のしれない早大生のブログに掲載(現在は閉鎖)

 「いま、<過激>を問う… 現代芸術の創造的破壊について」と題された討議をきく(1/15  神奈川県立音楽堂)。岡崎乾二郎による過去の美術作品の方法論の分析などはすこぶる面白かったが、岡崎を筆頭に出席者たちはいざ自分の芸術的方法を語りだすと、ほとんど保守的で曖昧、かつ瑣末な話にしかならない。どこに過激があるのやら、つくづく現状維持の時代だとおもう。過激さとは、世界と表現を結びつけるための方法だろう。表現者が自己の世界に耽溺してる以上、過激なぞ生まれるはずがない。
 やたら評判のいいステーブンピンカー『人間の本性を考える』を読んでみた。凶悪犯罪者の処遇やポストモダン批判など共感するところもあったが、全体的にはただ現状容認イデオロギーに科学的粉飾を施した代物だろう。かつてのエドワードウイルソンの遺伝決定論は非難轟轟だったのにくらべ、この本が評判よいのは、真実を語っているからというより、たんに時代が変わり、時流に乗っているからなのだろう。恣意的な統計・資料の引用から安易で粗雑な結論を導くやりかたはロンボルグの『環境危機をあおってはいけない』とも共通する。ジョンホーガンはたしか『続科学の終焉』でピンカーのことを、後先考えずに発言する人って書いてたように記憶するが、ほんと《「特性はすべて遺伝的である」というのはいささか言いすぎだが、それほどの誇張ではない》だなんて、自分で何を書いたかわかっているんだろうか。だいたいピンカーの思想には自然観が致命的なまでに欠けている。人間は自然から徹底的にはみだした動物で、本能は壊れ、その行動はことごとく文化(言語)に侵蝕されているなんて言説は八〇年代にさんざ聞かされたもんだが、現在は逆転して人間の本性はことごとく自然淘汰によってつくられた遺伝的特性だということになっているらしい。こないだも竹内結子主演の最新ドラマをみてたら、おもいっきり利己的遺伝子論が主張されていた。こりゃ同じ竹内でも久美子の領域だ。自然淘汰論者は聖書原理主義者より狂信的なのではないか。ここで唐突に告白すれば、俺はこの世の誰より保守的な人間だ。俺にとっての守るべきものは、自然であり、自然に則って営まれる生活だ。ポストモダンも遺伝決定論も信用ならないのは、けっかとしてどっちも自然破壊を容認する人間中心主義イデオロギーと化しているからなのだ。
 声明コンサート「論義ビヂテリアン大祭」(1/21 スパイラルホール)は、宮沢賢治の物語を原作に、声明と狂言の語りで菜食主義についての議論を重ねてゆくものという。去年みた備中荒神神楽のなかの問答神楽といわれる演目「五行」は衝撃的だった。季節をつかさどる神が、末弟をその席に加えるべきかどうか白熱した議論を展開してゆく。そこから、陰陽五行説をふまえた自然生態的世界観が、現代人にも理解できるよう改良された内容で語られる。それはさながら「十二人の怒れる男」のような討論劇であり、維摩経やヨブ記、プラトンの対話篇さえ想起させるものだった。仏教の「論義」も儀式化され、芸能的色彩が強められ、娯楽として好まれたという。その形式を声明として蘇らせ、現代の緊急課題ともいえる賢治の思想を加味して作品化する、となれば、エコロジー演劇批評の確立を目指す俺としては、もうみないわけにゆくまい、と、ぞくぞくしながら足を運んだが、賢治の口語(詩や手紙をふくむ)を、声明と狂言の妙な節回しで語ってゆくのはどうにも無理があり、違和感が拭えず、居心地悪い。梅原猛の狂言「ムツゴロウ」や石牟礼道子の能「不知火」は、思想と伝統が一体化して、作品としての完成度もそなえていたけれど、これはいただけない。つまらない現代純邦楽の代表みたいになってしまっていた。
 もやもやしたおもいをひきずりながら、モミックス「オーパスカクタス」をみる(1/22  東京国際フォーラム)。そこでは人間が砂漠の生き物に変身し、人間中心主義を越えた、異生物種間交流のようなものがかいまみえるのだろうか。某誌の聞き書きで、代表のペンデルトンは自然の大切さを伝えたいと語っていたのだが、結論を述べると、期待は裏切られ、深い思想を感じさせるものではなかった。だけれども、これほど面白い舞踊をみたのはひさしぶり。曲芸的な動き、物との戯れ、複数の人体が結合し変換されできたみたこともないカタチ、等等に魅了される。もはやひげ太夫に感動してる場合じゃない。この日、朝日新聞に石井達朗がもうひとつの演目の評を書いていた。《だんだんと歯痒さをぬぐえなくなる。》《耳に快く目を楽しませる大衆性はいいが、それだけでは十分でない。》 やっぱそんなかんじ。ところで、石井さんは俺が尊敬する数少ない演劇思想家のひとりだが、現在の舞踊の方向性についてどう考えているのか、訊いてみたい気もする。氏にとって舞踊とは、人間の表現の根源を追求したけっか見出されたもののように思えるが、いまの同時代舞踊はかつての小劇場と同じく、解体の一途を辿っているのではないか。須らく氏は舞踊評論家の肩書を捨て、演劇研究者の初心に立ち戻り、かつての『ふり人間』『アウラを放つ闇』のような、本質的演劇の原理論を展開すべきなのだ。
 宮沢賢治は農地肥料の研究なども試み、昭和のはじめに死んだが、その数年のち、久保栄は、北海道の農地肥料研究者を主人公にした「火山灰地」を書きあげる。このたび劇団民藝創立五十五周年記念として上演された同作品は、やはりみないわけにゆくまい(第一部 1/23 東京芸術劇場中ホール)。去年東京演劇アンサンブルがやった「日本の気象」はかなり退屈だったので心配したが、これは面白かった。北林谷栄もちょっとでいいから顔をだしてほしかったな。劇中、掠奪農業なる言葉があった。はじめてきいたのだが、肥料を施さず、土地をつかいすてにする農業のことをいうらしい。もちろん、当時の最重要課題は、階級間の搾取だが、そこには、わずかながら自然からの収奪という問題もふくまれている。賢治の存在、そしてほぼ同時期に、プロレタリア作家だった鶴田知也の、和人に侵略されるアイヌを描いた名篇「コシャマイン記」が発表されていることを思い併わせると、現在よりはるかに深い視野の萌芽がそこにはあったといえるだろう。いまや「戦前」ですらなく、俺達はすでに戦中にいる。「火山灰地」のチラシには《いま日本は太平洋戦争以来はじめての海外派兵を強行し、戦争に加担している。世界はますますきな臭く、危機的な情況になりつつある。いまこそ謙虚に歴史と向きあい、誠実に対話すべきではないだろうか》とあった。「日本の気象」でも劇の終りに演者が「僕達は自衛隊の海外派兵に反対します」と締めくくっていた。こうした真摯な態度表明や平和の希求にたいして、自分だけが賢明とおもってるらしい表層系反動劇評家からの批判があるかもしれないのだが。

 付記 このあと当ブログを開設。劇評はこれでおしまい。

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