劇評21 アルゼンチンの宙吊り演劇「ビーシャビーシャ」

2003年の文章

  機械仕掛けの慈雨
 近所に釣船茶屋なるものができた。酒を飲みながら魚釣りが楽しめる趣向らしい。面白そうだけど、こんな場末で客がはいるのだろうか、と不審に思っていたので、脳梗塞で倒れて元気のない親父を励ます意味も含めて、行ってみる。
 日曜ということもあり店は親子連れで賑わっていた。座敷にあがると、全体は船のかたちで、奥にむかってぐっと反りかえり、舳がにゅっとつきだしている。まわりを生簀がかこんでいて、魚が泳いでいる。釣竿が渡され、糸をたらす。釣った魚は、お好みに料理してくれるのだ。他人の芸を見聞きするのではなく、みずからの手で漁をし、それじたいを楽しむ体感式スポットで、こいつぁすぐれて演劇的だとはじめのうち感心していたのだが、なにしろいつ魚がかかるかわからないので、おちおち酒を飲んでもいられない。そのくせまったく釣れず、ぼろぼろになって泳ぐ魚をながめながら、いたずらに時は過ぎてゆく。むかいの個室の客と目があって、おたがいに「釣れませんねぇ」といったかんじで会釈したりする。半身麻痺の親父が、一度は釣り損なったが、そのあと一尾釣りあげた。
 考えてみれば魚釣りとは孤独な娯しみで、社交の場としての居酒屋にはふさわしくないのだ、というのは一尾も釣れなかった俺の負け惜しみで、宴も酣になったころ、舳の大太鼓がどんと叩かれイベントタイムがはじまり、小学生達の早釣り合戦が行なわれ、お祭り気分をきわだたせ、店内はそれなりに盛りあがっていた。

 むかし読んだ田村信の漫画『できんボーイ』には、磯でちゃっぷまんたちに邪魔され、翻弄され、竿を折られた釣り師が、あげくは海をただよい針に食いつく。「あのおっちゃんめ、つりができないとわかったらつられる方へまわりやがった」というオチだった。こうなったら俺も、釣られる方へとまわらなければならない。
 噂によるとアルゼンチンの演劇集団デラグアルダによる「ビーシャビーシャ」は、天井から降りてきた俳優に捕まって観客がばんばん釣りあげられ、宙を舞うのだそうな。二ヶ月の長期公演なので、いつでもみられると高を括っていたら、あっというまに終りに近づき、前売もなくなってしまい、まだ暑さののこる昼下がり、あわてて当日券を求める列に並ぶ(九月六日 赤坂ACTシアター)。なかには更衣室が用意してあり、ビシャビシャになるので荷物はお預けください、との脅し文句でロッカーを使うと三百円もとられて阿漕だ。開演時間になると、観客は案内に従い、舞台へ導かれる。そう、狭いとおもったら客席じゃなくほんとに舞台。公演期間がすぎたら取り壊されるはずの劇場の、舞台上を改造し、そこに観客も演者もまとめて抛りこむのだ。
 黒壁に仕切られ、うすぐらい演舞場に詰めこまれた見物の頭上には、紙の幕が張り渡され、照明があたり、そこを箒にのった魔女のような人影が横切ってゆく。まるでプラネタリウムか、海底につくられた水族館の窓から魚の群れをみあげているかのようだ。びしょ濡れになるとか、空中に連れ去られるとか聞いている俺達はもうつぎに何が始まるのかと、期待と不安でいっぱいになって、ぱらぱらっと雨のようなものが紙のうえに落ちかかっただけでどよめきがおこったりする。観客の緊張が充分に高まると、いきなり、紙を突き破って男が急降下し、ひとりの女を捕獲して舞いあがる。女はみっともなく足をバタバタさせているが、男が降りてきた瞬間に、すっと場内警備が寄っていて、女と一般の客をひきはなすので、仕込だったとすぐわかる。頭上の幕が取り除かれ、風船や紙吹雪や蛍光塗料のついた小玉が零れおち、霽れあがった視界からは、ブランコのように宙乗りする演者たちの姿。演じられるのは、まるで香港映画のような鋼線活劇。しかしそれは客席という安全圏から眺めるのとはわけがちがう。手を伸ばせば届きそうな高さを人間が滑走する。観客は飛び交う風船をぼんぼんはねとばすことから、だんだんとこの戯式に参加していくのだ。期待通り雨が降りだし、張出舞台では生演奏がはじまり、巨大な台車が曳かれてき、それに乗った演者は意味不明の叫びをあげたり、歌ったり、踊ったり、足踏みして溜まった水を客に向かってはねとばしたりする。そこかしこで、同時多発の演技が行なわれている。宙吊りの演者は、イタズラ好きの天使のように、黄金の雨にすがたをかえたゼウス神のように、天空と地上を自在に行き来し、あるいはジャングルジムで遊ぶかのように階上の手摺のあちこちをつたって飛び歩く。四人ぐらいの男女がからまりあったミミズみたいにひとかたまりになって飛びあがり、大きく揺れながら、グルグル回転している。なぜか男は背広、女はTバックスだ(だから飯島愛が宣伝してたのか?)。雨は激しくなり、風が吹き荒れ、稲光と雷鳴が轟く。嵐の中を、黒づくめの男が浮かびあがる。観客にまぎれた役者たちが歩きまわり、踊っている。観客もただ眺めているだけじゃない。雨に打たれ、濡れ、それによっておのが身を異化され、歓声をあげ、役者と一緒になって踊る。まさにクラブ風体感式スペクタクル。また現代に蘇った雨乞いの祭なのかもしれない。もっとも誰彼かまわず釣りあげられるわけではなく、きっちり命綱をつけてから、お客ふたりばかりが宙を舞うだけで、けっきょく俺は釣られることも叶わなかった。
 観客と舞台の垣根を取り払い、一体化させることは演劇の根源性を復活させるための方法論として、多くの前衛が試みてきたものだろう。そういえばこれとは逆に観客が階上から見下ろす劇をモレキュラーがやってたし(ダムタイプも)、演者が吊られて飛んだり跳ねたりするのはフイリップドクフレがやってたし、台車を曳いて見物とまじりあうのはラフーラデルスバウスがやってたし、客席に水をとばすのはタップドッグスがやってたし、客を檻に入れて引き廻したり役者が柵を越えて客席にのりこみぎりぎりまで近づいてくるというのはOM-2がやっていた。つまり「ビーシャビーシャ」は九〇年代以降の最先端の舞台芸術の集大成ともいえる作品ではないだろうか、とおもいいたり、さすがボルヘスを生んだ国、と、俺はにんまりしたのだが、もちろんただ前衛性にとどまることに終わらず、まずなにより観客を歓ばせることに重点がおかれてい、そこにこそこの劇の意義がある。人間にとって、前衛は贅沢品にすぎないが、娯楽は必需品なのだから。
 圧巻だったのは、はるか頭上を、命綱でぶるさがったふたりの演者が、壁面を頂点めざしてダダダダッとななめに駆けのぼり、力尽きるようにズザザザーッと滑りおち、振り子になってまた駆けのぼり、また滑りおち、という往復運動をつづけている場面。操り人形のように、イカロスのように、天使のように、神のように飛翔する俳優達の反重力的運動と、そんな人間の意志をおしとどめようとする重力の虹とのせめぎあいの連続は、観る者に生理的興奮をあたえる。クライストは操り人形について「人形には、それが反重力的であるという長所があります。なにが舞踏の敵といって、物質の慣性ほど舞踏にとって不倶戴天の敵はありません。ところが人形は、そんなものとはきれいさっぱり無縁なのです。人形を空中に持ち上げる力のほうが、地面に縛りつける力よりずっと大きいからです。(略)人形たちが大地を必要とするのは、風のようにそれをかすめ、一瞬制動をかけてあらたに各肢部の生気をよみがえらせるだけのためにすぎません。私たちのほうはしかし大地に憩い、舞踏の緊張から回復するために大地を必要としています。それは、明らかにそれ自体は舞踏ではなく、可能なかぎりすみやかにそれを消去しなければその先がはじまらないモメントです」と書いている(「マリオネット芝居について」)。また、人形のからだは重力の法則にしたがう純然たる振り子で、だからこそ人間の演技にはない優美さが現われる、ともいう。クライストのいう反重力もしくは重力の法則とは、天上から人形を持ちあげ、支えるみえない力を前提としているように思える。すなわち神。「ビーシャビーシャ」も、天上から下界へ、という世界像がかなり濃厚に見受けられ、やっぱりアルゼンチンは白人の社会だな、とおもう。山車を曳いたり、水をかけあったりは、土俗の祭式が採り入れられているようだが、閉ざされた空間での機械仕掛けの雨や風、音と光は、むしろ環境芸術に近いものだろう。ここで自然を制御するのは、人間の役割になっている。重力にさからい機械仕掛けで吊りあげられるのは、神ではなく人間なのだ。人工的な擬似自然のなかで反重力を感じ、快楽を得、遊び戯れ、劇が終わって外へ出る。まだ暑く、西陽が肌を灼き、濡れた服を乾かす。

 運動・行為・空間を魅せ、観客を巻きこみ、追体験させてゆく「ビーシャビーシャ」は、先鋭的な脱戯曲演劇のきわめてすぐれた成果といえる。レーマン『ポストドラマ演劇』には、ポスト人間中心主義的な演劇についてこう記されている。《そこでは人間の演技者をまったく欠いたオブジェの演劇と、技術と機械の演劇(略)、人間の登場人物を風景に似た空間構造の要素として統合するような演劇がひとつになる。それらは自然支配という人間中心主義的な理想に代わる選択肢をユートピアのように指し示す、美的な具象の力である。もし人間の身体が物体や動物やエネルギー線と同じ権利しか持たずに、それらとともに唯一の現実に従うならば(例えばサーカスの場合がそうであって、それゆえ楽しみに深さがある)、演劇は自然を支配する人間の現実とは別の現実を描き得るのだ。》 いちおうごもっとも、とはおもう。けれどもポストモダン思想に疑いをもつ俺にとって、この発言は玉虫色にしか映らない。「ビーシャビーシャ」はまさしく上記の文にあてはまる演劇だ。俳優は筋の主体ではなく空間構造の要素として存在し、人間は人形(オブジェ)のように存在している。とはいえ自然を支配しているのは、みてきたとおり人間にほかならず、主体に代わり構造を浮上させたにすぎない。暴風雨のなかを、中空に黒づくめの男が照らしだされ、浮かびあがる場面には、自然と対決する人間という図柄をつよく感ずる。レーマンのように、いかにも現代思想的に、「自然」という概念を排除したままで、自然支配を脱却できるというのは人間中心主義的な思いあがりとよぶべきだろう。
 俺はここで、せんだっておこなわれた諏訪御柱祭の木落しを想い、さらに夢想する。木落しは伐り倒した樹を曳きだし依り代とする壮大な物体劇の一部だが、木にまたがり斜面を滑り、重力の法則に従い、何物にも支えられず持ちあげる者もなく、空間の要素となって、大地を必要とするかのように、ふりおとされころがり、意志を失い、物体と化した人人の姿には、優美さという人間的な感覚のはいりこむ余地もない。もちろんこの祭とて、樹を神に捧げる供犠であり、人間中心的に機能している。だが樹と人間の関係を逆転させ、木を殺す儀礼から、木を生かす儀礼をつくりだすことはできないだろうか。あるいは供犠の解放と自然への祈りを結びつけた、あたらしい雨乞いの儀式を。人間はそのなかでただ自然の一部として存在しなければならない。こうした観点から、環境演劇もポストドラマ演劇も越えた、ほんとうに脱人間中心主義的な、自然生命の演劇を構想できるのではないか。

 付記 これは某劇評誌に投稿して、派閥が作りたいだけの劇評家某の差金でボツになったもの。『ポストドラマ演劇』を批判したためと思われる。のち知人のHPに掲載したはず。某はほんとうに醜悪。まさに劇評界の野田佳彦。野田といっしょに死んでいいよ。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック