劇評22 新派「太夫(こったい)さん」

2004年ぐらいに書いたもの

  転換期の新派
 去年スカパー歌舞伎チャンネルでみた新派「太夫さん」はじつに面白かった。
 なまでみたことはないのだけれど、新派というと、芸者の哀しみを描いた芝居とすぐ連想する。女形の芸を中心にした劇だったと知ったのはだいぶあとになって、波木井皓三『新派の芸』を読んでからのことだ。このたびみた「太夫さん」は昭和三十三年にテレビ放送され、おそらく撮影所で録られたものだろう。初演は昭和三十年、北條秀司作。戦後まもない京都島原の遊廓を舞台に、新しい時代の波と混乱と、かわらぬ人情がたくみに描きだされる。孕んだまま亭主に騙され遊廓に置き去りにされる喜美太夫を京塚昌子が、二万円騙し取られたうえ喜美を引き取る店の女将おえいを花柳章太郎が演ずる。役者の芸にうならされるのは二幕。冬の夜、かつてはおえいと慕いあったこともある善助が、ふたりで遊山に行った割り前を払うべく算盤を弾きはじめるが、おりからの寒さにふいにくさめをし、珠を乱してしまう。それをきっかけに、やがてふたりは若い日のたがいのおもいを打ち明けあうのだが、善助役の大矢市次郎が、手についた洟を懐紙で拭きとるしぐさが俺を酔わせる。こうしたありふれた、ちょっと滑稽な汚いしぐさから、しんみりと恋愛話へ移行してゆく運びのうまさ。そこで停電になり蝋燭を燈す心憎い演出は、花柳の提案で急遽芝居にとりこまれたものだそうな。そのあとはおえいと喜美のこまやかな情愛が描きだされる。三幕は大団円で、昔の太夫道中が復活され、店の建物が国宝に指定され、喜美太夫の逃げた亭主は成功して帰ってくる。着飾って勢ぞろいした太夫の行列は、天然色でみればさぞ美しかったろう。父に抱かれ、母の艶姿に咲いながら手を叩く坊やの表情がまたすばらしい。どこまで演技してるのかはわからないけれど、その自然さが大人達の写実の演技とみごとに融けあっている。すべて申し分ない芝居だ。でもほんとうは俺がこの劇に衝撃をうけたのは一幕で、それもやや別の意味にある。
 俺の持っていた新派像は、はじめに書いたとおり美しい女性の哀しい物語で、それを女優と女形がまじってたくみに演ずるというぐらいだが、劇はいきなり期待を裏切ってくる。それが主役の、花柳の老婆と、京塚の大女だ。なぜこんなところに、ばってん荒川と大山デブ子がいるのだ? しかも時代は戦後の混乱期。舞台もまた混乱を極める。女郎達は自分等の権利を主張しストライキを計画している。詐欺男が大女を妹と偽り、二万円を持ち逃げする。隠居善助は男を追ってすっとびだし(老優の身のこなしの軽快さ!)、女将おえいは動転し「二万、二万」と叫びながら二本指立てた両手をふりまわし、喜美は癲癇の発作を起こして卒倒する。おもてからは太夫のストをききつけた新聞記者が写真機の閃光を焚き、労働者たちの歌声が響き、カンカン娘のような女郎があらわれそれに唱和し、おえいは共産党を罵って塩を撒く。畳みかけるこのカーニバル的どんちゃんさわぎ、これはいったい新派なのか。
 北條秀司は『演劇太平記(二)』でかなりの紙数をさいて、「太夫さん」の創作過程を回想している。むかしをいまにつたえ、超現実的な雰囲気をただよわせる京の遊廓、それを現代の劇として蘇らせるため、完成まで三年の歳月をかけなければならなかった。その主題に北條は花柳界の転換を見出す。《建物は重要文化財の保護を受けても、売春業は逆に衰滅を望まれているというのが廓の現状だろう。伝統の重荷にあえぎながら、その日その夜を夢遊しているというのがまことの姿だろう。》 売春禁止法をひかえ、変化を迫られる遊廓。それが、舞台上の混乱として描きだされる。そして転換期を迎えているのは花柳界だけでなく、そうした世界を舞台にくりひろげてゆくことで成立している新派も同じだ。
 戦後まもないころ、新派危機説が打ち出されていたという。新派を支えた名優の多くは世を去り、花柳章太郎以降の世代が育たず、花柳自身にも老いがしのびより、女形芸を中心にした新派は、いやおうなしに方向転換を迫られていたはずだ。京塚昌子の存在は、新派を明るい現代劇に変える力になったという。そんな時代にあって、突然変異的に出現したのが、「太夫さん」だったのではないか。花柳の老け役、京塚の土俵入りできそうな体躯の太夫は、そしてドタバタの祝祭空間は、はからずも、転換期の新派を体現してしまっていたのではないだろうか。他の役者が演じたものを見比べてみたい。近頃フイルムセンターで上映された、同劇を映画化した「女体は哀しく」をみると、原作にあらわれない部分を拡大し、世相風俗を現実的に描いた、まったくの別作品になってい、舞台に静かにただよっていた情緒が、徹底的に日本映画特有の暗い情念に変質させられてしまっていた。
 そんなこんなでちょっとした関心をもちはじめ、その後、新派21世紀バージョンと銘打った「花たち女たち」を録画でみた。あいかわらず芸者の話。しかも水谷八重子と波乃久里子で「娘十八花ならつぼみ」ってことはないだろう。「太夫さん」によって過去の転換期をのりこえた新派も、その後は転身を図ることができずにきてしまったのだろう(近藤正臣や風間杜夫が出演してもなあ…)、「太夫さん」の持っていた、凄まじいまでの不思議な力を、感じ摂ることはできない。すでに滅び去ったものや、滅びつつあるものへの郷愁なら、俺とて持っていないことはない。けれども、ほんとうに衰退を免れるためには、もっととんでもない冒険が必要ではないか。無知な部外者としての俺が無責任に放言すれば、新派が新たなる方向転換を図るためには、すべからく川上音二郎の壮士芝居、すなわち政治劇に回帰すべきなのだ。
 いざ立ちあがれ、八重子と久里子! 嗚呼、いまこそ、皆、広瀬隆・小田晋・蓮実重彦・韮沢さんと手を執りて、団結し、前進せよ、ともに白髪の生えるまで! 邪悪な爬虫類人を倒し、正義と平和を守るのだ。たとえPCといわれようとも、この世に巣食う悪を滅ぼし尽くすため。行け、闘え、オッペケペー!

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