寺子屋崩壊2

寺子屋崩壊(後半)

 寺子屋ときいて思いだすのは昔みた、師匠の前で筆や紙をほうりなげ、暴れている子供の絵だ。文献によると、「劇烈ナル争闘ヲナシ、タガイニ竹木(多ク硯箱ノ蓋ノ類ナリ)ヲ揮ヒテ打チ合ヒ、血ヲ流シテ相争ヒ、師ニモ殆ンド抵抗スル」という状態だったらしい。いま学級崩壊といわれる現象は、江戸時代から始まっていたのだ。寺子屋の師匠も負けていず、すさまじい折檻で応酬していた。《苛酷ともいえる躾けや罰の背後に「肉体を鞭うち、苦しめぬいてこそ、文字を覚えることができる」という、当時の児童観・教育観があった》と石川謙は指摘している。竹内敏晴は低年齢化する学生の暴力を「からだの反乱」と呼んでいた。プロ教師の会の諏訪哲二は教育とは「文化の伝達」だと述べている(手習伝授)が、その伝達時における、からだとことばの相剋みたいなものが、反乱や暴力をよぶのかもしれない。
 藤井誠二は学校について次のような重い言葉を書きつけている。《「学校」を通過する過程で、理不尽な辛く苦しい体験を強いられ、「学校」から時間的に遠く離れた「いま」でも、「学校的日常」の呪縛の中で生きざるをえない人々が無数にいるのである。それほどまでに「学校」は、子どもからものごとを変革する意志の芽を摘み取り、絶望を植え込む。そして、それを引きずらせる。》 容疑者自殺という結果に終わった小学校での児童殺害事件の声明文には、学校への恨みが犯行動機であるように書かれていた。学校批判が犯罪者への共感や犯罪の肯定になってしまってはいけない。だけど、どうして学校はかくも人の心を傷つけるのか。ひとつにはまず誰もが逃れがたく体験しなければいけない場だということ。つぎに最も傷つきやすく、また人を傷つけることへの痛みを伴わない子供の場だということ。それからよく指摘されるように社会では犯罪として処罰される行為が平然とまかりとおり、たとえ発覚してもすぐ揉み消されてしまうような場だということ… つまり社会一般をめちゃくちゃ高濃度に凝縮した場だからという気がする。こうした閉じられた空間で乱反射するまなざしは、かならず弱者をかこいこむ。さいきんの暴力事件がたいがい女子供に向けられたものだということに、やりきれないおもいを抱く人も多いだろう。学校はこうした陰惨な暴力の温床になっていないか。
 宮台真司は酒鬼薔薇事件について学校ストレスを軽減しないかぎり、どんな中学生も同じような事件を引き起こしかねない、といっていた。幼児殺害犯の主婦も高濃度のストレスに悩まされていたようで、多くの主婦の共感を呼んだ。社会のほとんどが高濃度のストレスを抱えた「学校化」(あるいは「学校崩壊化」)されており、もはや誰がいつ他人を殺してもおかしくない社会になりつつあるのか。プロ教師の会の河上亮一は《ストレスに対して、それをくぐり抜けたり、耐えたり、はねとばしたりする力を身につけなければいけない》と書いている。でも問題は、ストレスはどんどん転化されて、弱いものに凝縮されてゆくということにあるんじゃないか。河上や諏訪哲二は学校とは社会の建前を教えるところだと主張する。それはまったく正論なのだが、つまるところ支配したがるものと支配されたがるものを造りだすことだ。必要とあればいつでも自分を犠牲に捧げ、また他人を傷つける関係を維持しつづけること。じつは宮台真司のいう「自己決定権」の欺瞞もそこにある。他人に迷惑をかけなければ何をしてもいいという前提自体は正しいものだが、現実には他人に迷惑をかけないとなると人間の行為のほとんどは不可能になるからだ。
 誤解を避けるためにいっておくが、俺が記述したいのは大きなパラダイム転換による価値の転倒という事態ではなく、むしろそうみえる現在の突起した現象が人間に深く根づいたものではないかという仮説なのだ。そこでまた別の話をする。
 猿の子殺しという現象がある。はじめにインドのハヌマンラングールという猿から発見された。この猿は一頭の雄に数頭の雌からなる単雄群と、雄だけの群れにわけられる。雄の群れが単雄群に殴り込みをかけ、指導者を追いだす。乗っ取りが成功すると、新しい指導者は仲間だった他の雄も追いだしてしまう。そしてとつぜん、赤ん坊を殺しはじめるのだ。赤ん坊が皆殺しにされると、雌は発情し、新指導者と交尾をする。こうした現象はほかの猿でも発見されるようになった。動物行動学でそれまで主流だったコンラートローレンツの理論によると、生物は種の保存を目的としているから、損失を避けるために同種族での殺しあいは行なわれない筈だった。ところが同種族内で不経済な子殺しが行なわれている。これをいったいどう説明すればよいのだろうか。
 七〇年代以後の社会生物学とよばれる分野では、動物の行動の基礎を個体が自己の遺伝子を残すためと規定する。そもため他個体は邪魔な存在となり、たとえ同一種でも排除されるのだ。(そうした主張の最も極端な例がリチャードドーキンスの利己的遺伝子論だろう。生物の生存目的は遺伝子が生き残るためにあり、個体というものは遺伝子を入れる容器でしかないのだ。日本では九〇年代に奇怪な流行を遂げ、人間行動のことごとくが利己的遺伝子のなせる業となった。これは俺は八〇年代に流行った、人間は本能が壊れててすべては言葉だ幻だといった唯文化論への反動だと思うけども、どっちも人間中心主義を脱却するかにみえてよりドツボにはまった人間中心主義になりはてている点で共通する。) しかしかならずしも遺伝子保持の適応戦略が子殺し行動すべてを解明できたわけではなく、河合雅雄は子殺しの主要因として密度調整機構をあげている。生息密度の高さがストレスになり(宮台真司のいう「満員電車状況」)、猿たちを子殺しに駆りたて、そのけっか個体数が調整されるのだ。(ハヌマンラングールの子殺しをはじめて観察し発表した杉山幸丸は現在、密度調整を近接要因、遺伝子保持を究極要因と考えている。)
 チンパンジーも子殺しを行い、しかもその肉を食べるという。季節の変わり目の食物を求めて移動しなければならない時期、生活全般が変化する時期を迎えると、集団は興奮状態になる。そんなときに赤ん坊殺しと肉食は起こるという。肉は分配され、チンパンジーたちは木の葉をちぎっていっしょに食べる。河合雅雄の表現を借りると、《肉とともに野菜を食べるという、本格的な食事を楽しんでいるのだ。》 鈴木晃はその集団的興奮状態を、儀礼的要素を感じると語っている。肉食するから興奮するというより、興奮しているから肉食が起きたように思えるという。
 唯言論者丸山圭三郎は、日本のサル学は餌づけ観察によるもので、そのため猿たちの本能はすでに壊されており、研究結果はほとんど間違っていると批判していた。杉山幸丸は餌づけは行なわなかったが、ハヌマンラングールという猿はヒンズー教徒の信仰の対象となってい、研究前から餌づけされてたのかもしれない。じっさい猿たちの行動が遺伝子に支配されてるのか文化に支配されてるのかは判らない。でもこの子殺しはまるで原演劇的供犠を思わせる。そこでもやはり犠牲になるのは最も弱い赤ん坊なのだ。昨年上演されたOM2の「Circulate」は神経症を主題にしたものだったが、母親の虐待によって死に追いやられた幼児の克明な記録が字幕として壁面に映しだされ、戦慄を引き起こした(去年の虐待による幼児の死亡は四十人にのぼる)。野生のチンパンジーもまた神経症による幼児殺害を起こすという。現実世界が失せたる一匹をついに救いえないとするならば、それは仮想の世界で祀られるしかない。劇的なるものが誕生するのだ。
 劇作家ロバートアードレイはこんな妙な理由で「ウエストサイド物語」を誉め讃えている。《人間が動物から受けついだ遺産のもつ驚くべき力が、舞台の上の若者たちによって観客に示されている》《そこにはわれわれの先祖の集団と同じような、ジェット団やシャーク団という名で呼ばれる不良少年団がある。集団内にはヒヒの群れとほとんど変わらない厳格な順位制が若者たちの間にある》《つまり自分が属する集団のメンバーに対しては慈悲や献身や犠牲を、隣のなわばりの連中に対しては疑惑や敵対心や永遠の敵意をもつ。そこには、狩猟性霊長類から人間への遺産である武器への愛好心がある。》 これってファーガソン流「演劇の理念」にたいする最上のイヤミだと俺は思うけど(アードレイはかなり大マジで狩猟本能論を力説してるみたいだけど)、寺子屋をめぐって俺が考えてきたこととよく似ている。で、いままでの考察から俺が寺子屋の物語内容についての解釈を発表するとこうなる。
 学校とは子供に、他人にたいして狼(利己)となり、また羊(利他)となるべき社会意識を強いる閉ざされた場であり、高濃度のストレスを抱えた人間の視線が交錯し、弱者をかこいこむ場でもある。大人たちはストレスから解放されるために最も弱い存在を供犠として捧げる。そして死んでいった者を偲んで、大いに興奮し、大いに泣き、祈り、祀るのだ。

 昭和の名人だった義太夫語り豊竹山城少掾は登場人物の心理を克明に分析し、新鮮な解釈で衝撃を与えた。なかでも寺子屋は恐るべき迫力に満ちていたという。山城少掾は八人の子持ちだったが、すべて死に別れてしまった。だからこそ子を喪う哀しみを痛切に理解し、伝えることができたのだ。山本有三の戯曲「嬰児殺し」は、貧しさから赤子を殺してしまった女が、貧しさから妻子を死なせてしまった警官に罪を告白してゆくという名作だ。山本有三は自作について《世の中にはかふいふ悲惨な事実沢山あるのだ。さうして、かういふ悲惨な事実が早く世の中からなくなるやうにならなくってはいけないのだ》と書く。山本有三や菊池寛が目指したものは近代の確立による封建制や貧しさからの解放だろう。けれども成熟した近代に到達した現代社会は解放をもたらすことなく、逆に異様な息苦しさを与え、やはり子殺しを引き起こしている。じつは菅原伝授、てゆうか菅原伝説の真の主題は子殺しより親殺しにあり、それこそが問題を解きほぐす鍵になると俺は思うのだが、それをのべるゆとりも、もう今はない。

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