踊る信長1

2001年、ステージカオス4号に発表したもの(第一章)。

    踊る信長

   一、お国は踊る
 記録によると、出雲のお国がかぶきおどりを始めたのは、慶長八年(1603)頃かららしい。かぶき者という異風なる男に扮したお国が、茶屋の女と戯れるさまを演じ、歌い踊り、大評判となり、お国は天下一の女とよばれた。そのかっこうは《紅梅の肌着に唐織りの小袖、赤地金襴に萌黄裏の羽織を着て、黄金造りの鍔に白鮫鞘の太刀を帯び、黄金の張鞘の大脇差ははね差しに、首にはいらたかの大数珠をかけていたと記す書もある。/また、南蛮更紗の袖無しの胴着を小袖に重ね、黄金の鎖に重ねて水晶のロザリオと十字架を胸にかけ、腰には瓢箪や巾着・印籠などさまざまのものを吊して、地面についた大刀にゆったりともたれかかるポーズを描く絵巻もあり、男髷に結って覆面をし、椅子に腰をおろした姿を描いている草子もある》(小笠原恭子『出雲のおくに』)というものだった。
 慶長八年は徳川幕府開設の年だ。これによって封建体制の基礎が固まりつつあった。関ヶ原の合戦は終わったけれども、大坂には豊臣秀頼がまだその勢力を温存させていた。いつまた東西決戦が行なわれるやもしれず、世情は不安に充ちていただろう。そうしたなか、あらわれたのがかぶき者といわれる異形の武士たちだった。かぶきとは傾くからきたことばで、尋常でない・異常なといった意味らしい。彼らのかっこうは、お国が扮したように、巨大な朱鞘の太刀を帯び、十字架やロザリオで身を飾り、皮の衣服をまとい、頭髪を茶筅に結い、といったもので、徒党を組んで町を歩き、キセルをまわしのみし、茶屋の女と遊び、あちこちで乱暴をはたらいた。あるかぶき者は刀に「生きすぎてしまった」と刻みこんでいたという。もはや下剋上の時代は去り、固定された身分制度のなかで窒息しそうなおもいが、彼らにこんな風体や行動をとらせたのかもしれない。
 お国はかぶきおどり以前、ややこおどりという踊りをみせていたらしい。ややことは幼女の意で、いたいけな踊りで人気があったようだ。室木弥太郎はそのころのお国はまだ十代前半ぐらいだったろうと推察している。佐渡へ渡った記録もある。ややこおどりじたいがすでにあきられはじめ、お国自身、少女の踊りをみせるのには限界があったのだと室木はいう。そんな状況を打破するために考えられたのが、かぶきおどりだったというわけだ。服部幸雄は逆にややこおどりとは幼児を中心に演じられる舞台芸能の総称だったとし、他の踊りや諸芸能を吸収し提携し、内容を豊富にしていたとする。
 《このような芸能が「京中ノ上下」のひとかたならぬ「賞翫」をかちえたのは、「かぶき」たる風潮がいちはやく舞台芸能に押し寄せたというばかりでなく、「京中ノ上下」の「かぶき者」に対する潜在的な支持を基盤にしていたと考えたい》《眼前に進行しつつある新政権の支配強化への不安と不満、そして漠然たる警戒は、彼我に共通する心情であった》《加えて、「かぶき者」の出立は流行の先端をいくトップ・モードであり、風俗それ自体としても、彼らは衆目の的だったのである。このような背景に立った芸能が成功しないはずはなかったともいえるであろう》と守屋毅は書いている(『「かぶき」の時代』)。松田修は《その興行が、先行芸能の上に立脚しながら、なお劃期性を主張しえた最大の理由は、やはり、女が男に扮し、男が女を模する、その仮装性・かぶき性にあったといえよう》と指摘する(『日本近世文学の成立』)。女性であるお国がかぶき者を演じ、男性が茶屋の女を演じたのだろう。その逆転が、戦乱と不自由にはさまれたとうじの民衆の心の奥底に、悦びをあたえたのだとおもう。
 かぶき者が茶屋の女と戯れるというお国の芸を記録しているのは当代記という本らしいけど、かぶき草子という読物にはまた違ったお国の舞台について記述している。それによると、お国が舞台で念仏踊りをみせていると、客席からいまは亡き実在のかぶき者・名古屋山三郎の亡霊が登場し、ことばをかわし、やがて茶屋の女や猿若という道化もまじえた惣踊となって山三郎を送りだし、終わる。この演し物が描かれたとおりに上演されていたかは疑問視するひともいる。
 お国のかぶきおどりの最初の成功のあと、すぐさまこれをまねて女かぶきの座がいくつもあらわれた。なかでもおおぜいの遊女による大規模な座は好評を博したようだ。くわえて慶長九年にはもう「同じことばかりやってるので見飽きた」なんて記録がでてきている。そして十二年からはぷっつりお国の話題は記録にあらわれなくなっている。で、さっきの名古屋山三の劇なんだけども、小笠原恭子は、慶長十七年にお国が五年間の沈黙を破って発表した、復活を賭けた秘密兵器ともいうべき新ネタだったのだとする。服部幸雄も最近ではこうしたかたちでじっさい上演された可能性を認めている。本田安次はかぶき者が茶屋女と戯れる場を、踊というより俄狂言だったろうと指摘しているが、こっちはいっそう演劇と呼ぶにふさわしいものになっている。お国の一座には狂言師が関わってい、お国はそのなかの三十郎という男を夫にしていたらしい。
 名古屋山三郎とは慶長八年に若くして死んだかぶき者で、織田信長の一族という。お国と山三は愛しあう仲だったという伝説が後につくられ、さらには山三がお国に踊りを教えたという伝説もつくられている。なぜお国が山三を舞台でとりあげたかについては、ふたりが知りあいだったと考えることもできるが、じっさいのところはわからない。
 名古屋山三郎が観客席から登場することについて丸谷才一はとうじ上演されていたイエズス会劇の影響をみている。この推察が正しいかどうかはともかくだが、切支丹の祭りには信徒の行列や宗教劇が行なわれてい、また狂言と称する踊も行なわれていたという。林屋辰三郎はこの踊が女性を中心にしたものならば、かぶきおどりにちかいものではなかったかと述べている。さらに林屋は信徒によって演じられた日本風の悲劇を、能の形式を用いた新しい劇として、豊臣秀吉を主人公にした太閤能とともに、能の正調をやぶるかぶいた能だったとしている。
 名古屋山三の霊が現われることも能の形式だが、中世的夢幻劇ならば霊の救済で終わるところを、お国と山三は酒盛りし、陽気な連れ舞となる。五来重は《お国歌舞伎の成功は、この近世的発想にあった。亡霊はあの世で済度されるのでなく、現世の快楽で済度されるという思想である。陰惨な中世が終末を告げ、近世の夜明けにお国歌舞伎はちょうどマッチしたのである》と書いている(『踊り念仏』)。浅野美和子も《巫女の中に両性具有を見、それを芸能として表現し、讃美する、さらには念仏踊など群衆の宗教的熱狂の中にそれを表現してはばからない風潮は、人間解放を求める民衆の深層意識が、社会体制の枠のゆるむ戦国から江戸初期にかけて、表層に噴出したものとみられる。お国像は、まさにそのような民衆意識に育まれた象徴的存在であった》(「出雲お国像と民衆意識」)という。しかし中世が闇で近世が光という捉え方は一面的にすぎるだろう。女と男が逆転し、あの世とこの世が逆転する。繰り返すが、すでに時代は下剋上の終末にあった。百姓が国を持つことも、うつけ者や草履取りが天下人になることもない。逆転の時代は去り、閉塞された状況で、ひとびとは舞台のなかでの逆転に慰めをみるしかない。《おくにのかぶきおどりは、豊臣政権の崩壊から徳川体制の確立までの、ほんのわずかの間隙にあってこそ誕生し得たのだ》と小笠原恭子もいう。
 次章ではそれ以前の、価値の逆転する時代、叛乱と戦争の時代、演劇の変革と社会の変革が同時進行していた闘争の季節を、振りかえってみることにしよう。

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