大衆演劇と世界経済2

つづき

 「日本経済がここまで悪化してくると、従来とはまったくコンセプトの異なる政策が求められてきます。殊に当面の景気対策と構造改革の推進という、ともすれば矛盾する二つの大きな課題解決のためには、レーガン流のサプライサイド減税しかありません。経済を支える企業や起業家をエンカレッジするため、法人税減税の一層の強化に加え、所得税の最高税率を下げてやる。明らかに、金持ち優遇税制が必要な時期なのです」
 経済財政・金融担当相を務める竹中平蔵の、大臣就任以前の談話。この発言を載せた斎藤貴男『機会不平等』は、現在の社会に表れるさまざまな事象を点検し、かいまみえる事態を探ってゆく。たとえば教育改革。公立の小中校ではゆとり教育が実施され、授業内容が削られ、私立校との差がつき、公立中学は落ちこぼれとされるようになりつつある。公立の老人介護や学童保育施設は切り捨てられる。企業内では、派遣社員の女性は性的いやがらせの餌食となり、労働組合は会社側の雇用環境を積極的に肯定する「創造的運動」に転換しようとしている。こうした動きの背景には、九〇年代の日本で、規制緩和による市場の完全自由化を謳いあげた新古典派経済学者たちの主張があり、それをよりどころに失業者の増大や福祉の削減を図る自由放任政策があった。自由競争は結果の差を求めるものの、まだしも機会の平等を前提とする。けれども、斎藤によれば、これらの事象や主張の奥底を流れる思想とは、適者生存を第一とする社会ダーウィニズムであり、さらには、機会の平等さえ取り去り、あらかじめ強者と弱者を選別し、社会の階層化をもくろむ優生学的思考が働いているという。だから、ゆとり教育とは、社会を二極化するためのエリート教育のうらがえしなのだ。宮台真司は九〇年代後半にはやくも、十年一日のごとき大衆批判を繰り返す保守主義者の「平準化幻想」を批判していたが、不況と構造改革のもとで、好景気時代の大衆社会論的視座はすでに過去のものとなり、閉塞した時代を経て、危険な社会が生みだされつつあるときなのだろうか。
 アダムスミスいらいの古典的経済学の流れを汲む新古典派は、政府が市場へ介入するケインズ経済学を否定し、市場万能論を掲げ、八〇年代以降の米経済政策の中心になった。社会主義崩壊後、世界経済は国境を越えたグローバリゼーションなるものによって覆われ、通貨は情報化され飛び交い、世界の市場は一元化される。経済格差はいっそうひろがり、自然や文化を破壊され、市場にのみこまれた貧しい国はより貧しくなる。《都市の指導者は、田舎や砂漠の住民を従属させ、自己の利益のために働かせるのであるが、その方法として、まず彼らのあいだに貨幣を浸透させたり、彼らの望むような生活必需品を都市から供給して、それによって彼らの生活の死活権を握るやり方での帰属と、武力を行使して屈服させる強制とがある》とアラブの思想家イブンハルドゥーンはもう六百年もまえに洞察している(『歴史序説』)。元世界銀行副総裁ジョセフステグリッツの『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』には、国際通貨基金と米財務省が貧しい国国に痛みをおしつける状況が、著者の体験をふまえて詳述されている。現在世界的規模で行なわれていることが、そっくりそのまま日本国内でも行なわれているわけだ。八〇年代の経済摩擦から、分割民営化に内需拡大、リゾート法に農地解放論、乱開発と地価高騰、構造協議とバブル崩壊、米の自由化、不況の中での規制緩和に痛みを伴う構造改革、というながれには、アメリカの影がちらちらみえる。アメリカの経済政策に学んで、日本も民営化と規制緩和を進め、市場にすべてを委ねよと主張したのが、竹中らだった。
 斎藤貴男は、「自然淘汰・適者生存」を人間界に適応した社会ダーウィニズムに注目するが、そもそもダーウィンの思想のほうこそ、植民地主義によって拡大する世界経済の競争原理を生物界全体にあてはめ捏造されたものだろう。ダーウィンの発想は、アダムスミスのあとにでてきた経済学者、マルサスの人口論から導きだされたものだ。人口の増大は食物の生産をはるかに上回る。幾何学的に増大した人口は、戦争や疫病により淘汰されるので、貧者の救済法は不必要、というのがマルサスの論理だ。スミスやマルサスに影響をあたえたと思われる、『蜂の寓話』で知られるマンデビルは、個個の人間の悪徳(利己を追求すること)が、全体としてひとつの天国をつくると主張した。かれはまた、貧しい子供のための慈善学校設立にも反対する。貧困者への教育は、かれらを怠惰で無精にし、国家から生産力を奪うというのがその理由だった。かれの思想は、資本主義の前段階の重商主義的社会概念に結びついているというが、そうなると、俺はマンデビルと同時代人だったスイフトの貧困児処理私案を思いださずにいられない。アイルランドの貧困と人口問題をいっきに解決する妙案として、貧困家庭の一歳ぐらいになった赤ん坊は食用に売れ、とスイフトはいう。まるまる太った赤ん坊を塩と胡椒で味つけすると、えもいわれぬご馳走になり、ついでに皮も利用すれば、靴や手袋になるといい、その調理法などにもくふうをこらしているものだ。中野好夫は書いている。《食人肉などという、もちろん非常識もきわまった狂人沙汰にちがいない。だが、文中、幼児肉の美味を推賞する件りのはじめに、実にさりげなくだが、「どうせこれまでも親たちの大半を啖いつくしてきている地主たち」とある一行を、よろしく読者は見落としてはならないはずである。「親たちを啖いつくす」とは、もちろん植民地的収奪の謂である。不在地主どもは、すでにアイルランド農民たちを完全な餌食にしてきているのだ。それがいまさら幼児肉の食用に対してだけ、道義感、人間性などを持ち出す、なんの資格がある。》(『スウィフト考』) スイフトの視点は、マンデビルやマルサスへの批評になるのみならず、社会ダーウィン主義や現在の世界経済のありかたをも、批評する力を持ったものだ。
 子殺しという自分固有の関心領域を、熾烈な競争化と優生学思想に基づく社会に結びつけると、俺はどうにも、高見広春の小説『バトルロワイアル』を連想してしまう。大東亜共和国なる全体主義体制の国家プログラム、一学級の生徒がたがいに殺しあい、最後に生き残った一人が栄冠を得て表彰されるという物語の制度は、現在の自由競争社会への強烈すぎる反射というべきものだ。原作の国家体制がちょっと北朝鮮を連想させ(映画「シュリ」冒頭での工作員同士の殺戮場面を彷彿とさせる)、登場人物達がいくぶん漫画的に造型されているのにたいし、深作欣二が監督した映画では、より現代日本に近い状況になり、殺しあいの場に投げこまれた中学生の不条理がいっそう現実的に描きだされてはいたが、なぜ子供を殺しあわせるかについては、少年犯罪の増加で大人が子供を恐れはじめたという、わかりづらい説明でしかなかった(映画最大の失敗は、担任役をビートたけしにしてしまったことだ)。自民党の議員がこの映画の上映反対を訴えたときくが、自民党の政策を推し進めればこういう世界になるんじゃないのか、と俺はいいたい。そして世界の多くの国は、超大国の利害によって、殺しあいを強制されてきたのではなかったか。
(続く)

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