カタカナ語の表記と発音

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かわいいみみちゃん

 さて広瀬隆『地球の落とし穴』にこんなことが書いてある。ケネディーと書いて原稿を渡すと、いつも校閲者にケネディと直される。ケネディーをケネディと発音するアメリカ人などいない。《ディジタルという言葉も、日本語ではデジタルと書かれている。これは、ケネディーをケネデーと発音するほど、国際的に恥ずかしい表現である。》
 広瀬隆は、小田晋亡きあと、日本で最も偉大な文化人だし、『地球の落とし穴』も、モンサントの危険性をいちはやく指摘していたり、学ぶところ多い名著だが、上の意見には賛同できない。ケネディーをケネデーと発音したってちっとも恥ずかしくない。
 広瀬は同じ本で、とうじのインド首相ガンディーをガンジーと書いている。
 思い出すのは、学生時代、若くして亡くなられた仏教学者阿部慈園氏が、授業中、聖者ガンディーをガンジーとよぶことについて、ケネディーをケネジーとは発音しないのに、なぜガンディーをガンジーなどとよぶのか、と不満を漏らしていたことだ。
 このとき俺は、ケネディーを日本流に発音するなら、ケネジーじゃなくケネデーだろうと思った。なぜそうなるのかはわからない。なにか音韻上の法則があるのかもしれない、と思ったのはつい最近のことだ。
 本多勝一が、加藤周一がベトナムをヴィエトナムと表記するのを批判したことがあって、これは現地の発音じゃなく西洋風の発音だということだったと記憶する。むしろベトナムのほうが原語の発音に近いという。ヴィエトナムなんて気取った書き方の、いっけん教養主義的な俗物性に対するするどい批判だった(本多は加藤周一がすぐれた知識人だからその欠点まで擁護できないと書いているけれど)。
 いうまでもなく「スベカラク」は「すべて」の高級表現だが、「スヴェカラク」と書けばより高級になる、「ヴァヴィヴヴェヴォ」は「バビブベボ」の高級表現だから、なんて昔は俺も思ってた。本多勝一は「ワインや僕に鳥肌が立つ」という名言を残したが、いまの俺はヴァヴィヴヴェヴォに鳥肌が立つ。なぜレベルと書けばいいことろをレヴェルなどと書くのだろうか。
 広瀬隆はウィルスをウイルスと書くことにも拒絶反応を示しているが(ビールスっていつのまにか使われなくなった)、かつてはこれこそが日本語の発音だったのじゃないか。「ゐゑを」という文字は過去「うぃうぇうぉ」と発音したが、いつしか「いうお」と同化した。つまり「ウィウェウォ」は日本語になじまない音なのだ。ウィリアムをウイリアムと発音する人はいまだに多いはずだ。さすがの広瀬もR音とL音を書き分けろ、とは言うまい。中国韓国にもLとRの音の区別はない、とヤコブソンも指摘してたと記憶する。
 つまり音素もまた守るべき伝統文化なのだ。
 ということを考えた俺は、カタカナ語は原音に近い表記ではなく、日本人が発音しやすいように書くべきだとの結論に達したのだ。
 フョードルなんて発音は日本語になじまないからフヨードルもしくはヒョードルと表記すべきだ。デジャヴュなんて発音はいまでもむつかしい。デジャブでよろしい。つーか既視感とかにすればいい。シミュレーションをシュミレーションにすると語自体が変わってしまうからこれはシムレーション、つーか予測とか書けばいいだけの話だ。コミュニケーションだってコミニケーションと日本風の発音どおりに書けばよい。そういえば以前どこぞの雑誌にマークトエインと書いたらトウェインに直されたことあったな。
 表記だけでなく、発音も文化なのだ。ヴァヴィヴヴェヴォなんて表記も発音も、日本文化の破壊なのだ。歴史的仮名遣い論者がカタカナ語についてこうした発言をしているなら、俺も旧仮名を支持していいのだが。
 本多勝一と呉智英の日本語対談をどこかで企画してくれないかな。

 かくして、今日も危なげない正義で、この世に巣食う悪が、滅ぼされた。

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