世界文学大作戦:コヘレトの言葉の巻

この夏から新共同訳『聖書』(日本聖書協会)を、ぽつりぽつりと読んでいる。

 「聖書」とよばれるキリスト教の経典、ことに福音書とよばれるものにはこれまで縁がなかった。十代の後半に、世界の名著に収録された諸篇を読んだきり。
 でもユダヤ教には関心があるので、旧約といわれる教典はいくつか愛読した。創世記・ヨブ記・エレミヤ書、など。思想的にも深く、文学としても味わいがある。
 去年ほんのひと齧りぐらいだけど、死海写本やヨハネの黙示録について調べたこともあり、聖書もいつかは全編通しで読んでみたいとは思っていて、手に入れておこうとは思っていたところ、中古書店で108円で売っていたので購入し、古代オリエント文学を読んだつづきとして、まず旧約から読み始めている。

 世界の名著で読んだとき、最も印象に残ったのは「伝道の書」だった。「一切は空、空の空」という無常感は仏教に通じ、その虚無感は実存主義にも似、享楽主義はエピクロスを思わせる。今回「コヘレトの言葉」と題された同作を読み返し、その文学性にあらためて感じ入った。
 コヘレトの言葉は「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」と冒頭に記されている。この書の直前に配置された箴言には「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言」とあり、コヘレトをソロモン王とする説も古来からある。

 ソロモン王の栄華は列王記・歴代誌にえんえんと綴られている。
 《ソロモン王は世界中の王の中で最も大いなる富と知恵を有し、全世界の人々が、神がソロモンの心にお授けになった知恵を聞くために、彼に拝謁を求めた。彼らは、それぞれ贈り物として銀の器、金の器、衣類、武器、香料、馬とらばを毎年携えて来た。》(列王記)
 彼は多くの外国人の妻を迎え、彼女らは異教の神を崇拝したため、神は怒り、ソロモンの死後王国は分裂したという。

 そんな大いなる知恵を持った人間のたどりついた思想は《人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、すべてはひとつのところに行く》(コヘレトの言葉)というものだった。
 この思想はヨブ記につうじる。広大な自然世界を、さまざまな動物たちを創造した神に、人間は決しておよぶものではない。神を自然と同義とみるならば、これはすぐれてエコロジカルな思想とさえいえる。人間は自然を超えてはならぬ。

 コヘレト=ソロモン説は現在否定されているけれども、コヘレトがみずからをソロモンになぞらえ、この言葉を記したことは疑いない。だからこそ、趣がある。彼は富も知恵もすべて手に入れ、かつてエルサレムに住んだだれよりも栄えたが、どれもこれもみな空しいものにすぎなかった、とつぶやく。

 亀井勝一郎はコヘレトの言葉を、進歩・幸福・運命への懐疑が述べられていると指摘する。《伝道の書は信仰について語るよりも、むしろ懐疑の声を次々と放っているわけで、信仰にとっては危険な書といえるかもしれない。しかし旧約の中に敢えてこれを収めたところに、私は西洋の古人の深い智慧を感ずる。人生への深い懐疑なくして、信仰はないのみならず、信仰そのものへの懐疑もまた必要である。(略)信仰の敵は、決して懐疑ではなくむしろ軽信ではなかろうか。》(「西洋の智慧」)
 池田裕は好著『旧約聖書の世界』で、救済や変革ではなく虚無を語るコヘレトの言葉を、権力の側に立つ知者と批判的にみる。イスラエルの預言者は《いずれも民衆の苦労を自分の苦労としてともに苦しみ、社会的に全く無力なみなしご、寡婦、寄留者や貧しい者たちの人間としての権利と尊厳を擁護するために、わが身の危険を冒してでもあえて権力者に訴え、虐げる者たちを激しく弾劾した》が、コヘレトは《社会の不義、不正を是正できる立場にありながら(略)実際には傍観者の立場から一歩も出ていない。》
 そうでありながらも、《コーヘレトが語る言葉には時代や民族の壁はない。彼の言葉にはすべての人間に通ずる「古典的な」普遍性がある》と池田裕はのべる。ゆえに現代日本人である俺は、旧約聖書のなによりもこの書にすなおに感動する。池田によれば、非ヘブライ的な異端思想である伝道の書は、他民族・他文化と対話できる姿勢として評価され、ヘブライの聖書に組込まれた。そこに救済が語られないからこそ、普遍性が獲得されたといっていいと思う。

 真木悠介『時間の比較社会学』には、ヘブライ人の時間意識に関するすぐれた考察があり、そこで、伝道の書の特殊な時間感覚については別個に論じてみたいと記されていたのだが、その後の真木(見田宗介)がこの書のことを論じでいるのかは知らない。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック