中国の演劇思想

DVDで韓国映画「ベルリンファイル」を観る。期待したほど面白くなく、「シュリ」のほうがはるかに衝撃的だった。アラブ過激派とかモサドとかCIAとか、ほどんど出てくる必要ないのにムリヤリな感じだった。

竹内実『中国の思想』にこんな言葉が出てくる。中国の寺院の祭で演じられる奉納芝居の、にわかごしらえの舞台の柱に書かれていたものだという。

  乾坤一戯場   乾坤一劇場
  戯中更有戯   劇中さらに劇あり

「〈中国という一つの世界〉は、もともと、舞台なのであって、そこで、演じられているのが歴史という芝居である。その歴史のなかの一日、その大きな芝居の一コマとして、このにわかづくりの舞台の芝居をごらんなさい。――こういう意味なのである」と竹内はのべる。

人生は舞台、という感覚。
明代の文人、謝肇淛の「五雑組」という書には、それをさらに強めたこんな言葉がある。

 宦官や婦人が芝居の演じられているのを見ていて、水に身を投げたり難に遭ったりするところまでくると、誰しも大声をあげて泣き悲しみ、声も出なくなってしまうのである。これを笑う人が多いのだが、わたしは怪しむに足りないことだと思う。人生での宮仕えというのは、恰も舞台の上のようなものにすぎない。忽ちにして富貴になり、俄かに主君になるかと思うと、にわかに臣下になる。栄辱のさまざまの姿や悲歓のさまざまの姿も、芝居がはてて観客も散り散りになってしまうと、結局なにもなくなってしまうのである。(中国古典文学大系55『近世随筆集』)

中国の哲人劉大声もまた、かなりよく似たこんなことを書いているという。

 あらゆることのなかで、われわれがもっとも真剣になるのは、役人になろうとすることであって、もっともつまらないといわれるのは、芝居の役者になることだ。だがかような考えは、みなばかげていると思う。舞台の俳優たちが、それぞれ現実の人間だとは信じながら、歌を歌い、泣き、罵り合い、冗談をとばしているのを幾度か見たことがある。しかし現実は、こうして演出される昔の人物ではなくて、むしろそれらの人物に扮する俳優そのひとなのだ。彼らにはみな、親も妻子もあり、みな親や妻子を養いたいと思っている。だから歌ったり、泣いたり罵ったり、冗談をとばしたりしてその糧をえているのだ。彼らこそ、自分らが扮しようとしている舞台の人物なのだ。俳優たちのなかには、官服を着、役人の帽子を冠り、自分の演技で、本物の役人だと思い込んでいるものがある。私はそういった人々を見たことがある。それだけにこれが芝居だと思っているものは誰もいないと考えている。会釈したり、叩頭したり、席に着いたり、話をしたり、あたりを見まわしたりしている間、いや、いかめしい役人に扮して、その前に罪人らがふるえているときでさえ、歌ったり、泣いたり、笑ったり、罵ったり、冗談をとばしたりして、両親や妻子を養わねばならぬしがない俳優にすぎないことを悟らないのだ! ああ、自分の腸と五官(すなわち本能と感情)が、ことごとく芝居に支配されるまで、自分がじつは役者だということをまるで覚らないで、ある芝居、ある役割、ある台本、ある科白のあるアクセントや、ある型に、一心不乱になっている人々がこの世にはたくさんあるのだ!(林語堂「生活の発見」世界教養全集4)

人生は舞台、という感覚がさらにさらに深められた私のお気に入りの言葉なのだが、かんじんの劉大声については、いつの時代のどのような人物なのか皆目わからない。けれども、上記の言葉はどれも人生を芝居に見立てたすぐれた批評といえる。たいくつな舞台のたいくつな批評よりも、はるかに面白い。こういった方向に、演劇批評、演劇思想の可能性を見出すべきなのではないだろうか。



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