「俺」

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というわけで、河上賞の選評では「俺」という主語について議論がなされたという。選評を読むかぎり、擁護してくださったのは山田登世子さんと田中秀臣さんのおふたり。田中さんのブログでは「防戦一方」と書かれていたんで、かなり否定的意見が多かったものと思われる。
群像のときも、「俺」をめぐって賛否両論あったときいた。
劇評を書いていたときも、やはりここが必ず問題になった。「俺イズム」だ、とか、「俺的」がどうのこうの、とか。
だけど、これはそんなに問題になることなのかと訝しく思う。独学者の俺は論文の書き方なんかまるで知らないし、ふだんの会話では俺を使っているので、たんにその延長で書いているだけだ。ほかに「俺」という一人称で書く人は、亡くなった平岡正明と、朝日を辞めてからの本多勝一で、どちらもすぐれた名文家だ。まえにもどっかに書いたはずだが、俺を使うのは直接には三遊亭円丈『御乱心』の影響で、予備校時代の小論文試験あたりからこれを使いはじめ(もちろん評価は最低点だった)、大学に入ってさいしょに書いた評論でも俺を使っていたし、卒論も俺で通した。指導教授は「これはいいのか?」というから、「いいです」と答えると、「君がそう言うんならいい」と柔軟に対応してくれ、内容はかなり高く評価していただいた。
考えてみれば、「俺」と書くとどこかしら自己主張(吉本隆明風にいえば「自己表出」)が強い文章にみえるのだろう。けど俺が書く文章はそれでいて客観的な部分(指示表出)も多い。そこらへんに違和感を覚えるむきもあるのかと思う。吉本は、たしか他人を罵るときは「俺」をつかっていたと記憶する。
ま、とにかく、今後とも評論を書きつづけるかぎり「俺」で通させていただきます。

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