須原一秀『自死という生き方』

最近は新しい評論の参考になりそうな本をいくつか読んだ。黄文雄『文明の自殺』、リチャードミルトン『進化論に疑問あり』は疑問もあるが学ぶところも多い。

 ちかごろは「自殺」の問題をどう思想化すべきか考えているところなので、前前から読みたいと思っていた須原一秀『自死という生き方』も読んでみる。これもなかなか興味深かった。
著者は自身の哲学的事業として本書原題「新葉隠 死の積極的受容と消極的受容」を書きあげたのち、失敗のないようあらかじめ頸動脈を切り裂き、縊死したという。「本書と私の自死決行とはワンセットで一つの哲学的プロジェクトである」とあとがきでは述べられている。
 俺も、自分の人生は自分で終了させられたらいい、と思う。いまはまだこの世に未練が残っているので死にたくないとしても、健康で幸福なうちに、もう充分に生き切ったと、満足しながら死ぬことは理想的といってもいい。だから著者の行動には共感できる。

 著者は、ソクラテス・三島由紀夫・伊丹十三の三人を、人生を楽しみあじわい、極みに到達したものが機会を逃さず自死を遂げた、とみている。
 いわば、人生を満喫したうえでの終了だ。さいきんだと中村とうようがそうだし、矢崎泰久によると小沢昭一も病院で絶食しみずから死を選択したらしい。この両人も極みに達ししあわせな死のように思える。
 ただし三島が頑健で明朗闊達な人だったかはすこし疑問があるし、川端康成は三島の亡霊に怯え、ノイローゼになっていたとの話もある。著者はいくぶん死者を自分の理想に近づけすぎているようだ。

 というわけで本書前半部分は納得できるものなのだが、後半にくるといささかだれる。俺が葉隠を読んだことないからということもあるけど、日本人の伝統的自殺ならもっとほかの思想がある(これについては別の場所で書く)。秋山駿は、戦後のある時期から自殺が減ったのは他人を殺しはじめたからだ、ということを書いていたが、武士は逆に、戦闘員が他人を殺すことのない状態に置かれたため、死がみずからに向かっていったのではないか。だいたい武士道と極みは正反対の感覚ではないのか。
 それと著者の自殺観はあまりに個人本位的すぎて他者や社会がはじかれているのが気になるとこだ。生命倫理学者が本書をいかに受け止めているかはぜひ知りたいものだ。

 解説を浅羽通明が務めているのは、著者と交友があったのかもしれないが、おそらく浅羽はこの本によって鶴見済の『完全自殺マニュアル』の厭世的な自殺観を超えたいと願ったのではないか。『完全自殺マニュアル』の効用は各自殺方法の苦痛度を明記したことにあると思うのだが、須原によればそんな苦痛はいざとなればわりとあっさり越えられるらしい。

 というわけで、自殺がうまく思想化されているとは思わなかったが、いま考えている評論にいろいろとヒントを与えてくれる。『完全自殺マニュアル』その他の本とあわせ読めばもっと見えてくるものがあるだろう。

 追伸:アヘシンゾーは不正選挙の、ニセ総理ですよ。

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