世界文学大作戦:ブータンの瘋狂聖 ドゥクパ・クンレー伝

渋谷ツタヤのサスペンスコーナーにあった「神は死んだのか」というDVDが面白そうなので借りてみた。無神論者の哲学教授に論戦を挑む学生と、彼らを取り巻くひとびとの群像劇で、これはてっきり「マグノリア」方式で、最後とんでもないオチがつくに違いないと思っていたら、事件が起こることは起こるのだが、結局教会の宣伝映画じゃないかとがっくり。幸福の科学の布教映画と変わらない(見たことないけど)。まぎらわしい棚に置くな!

閑話休題
岩波文庫はここしばらく、チベットの文化と思想に関する著作を刊行しているが、ゲンデュン・リンチェン編『ブータンの瘋狂聖 ドゥクパ・クンレー伝』(今枝由郎訳)は崇高な艶笑文学の超傑作だった。
チベット仏教は仏画をみても、ミラレパ伝なぞ読んでも、なんともいえぬ異様な兇兇しさがつきまとう。麻原彰晃に影響を与え、オウムを殺人教に変えただけのことはある。
けれども「世界一幸福な国」ブータンのこの書物は、軽妙で、愉快で、読むものに安寧を与える。
光源氏級の奔放な性遍歴を重ねながら放浪し、奇蹟を巻き起こし去ってゆく謎の僧侶ドゥクパ・クンレー。そこで数年ぶりに「世界文学大作戦」を復活し、紹介してみよう。

チベット生まれのドゥクパ・クンレーは、幼時から瞑想修行にふけり、僧として戒律を授かり、秘密乗の教えをあますことなく学んだが、その後、僧衣を脱ぎ、気ままな放浪の旅に出る。実家に帰ったドゥクパ・クンレーに母は妻を娶れという。そこでクンレーは百歳の老婆を見つけ、おぶってかえり、嫁を連れてきたという。母は呆れて、これなら自分が嫁の仕事をしたほうがいい、というと、その夜クンレーは母の枕元に忍び、一緒に寝ようとする。いよいよ呆れて母は拒むが、クンレーは聞き入れない。根負けした母が、誰にも言うなと断ってからまぐわおうとすると、クンレーは立ち去り、翌朝街で「馬鹿なことでも言いつづければ、母親でも口説き落とせる」と大声で叫んだ。このおかげで母親の業と厄とは清められ、百三歳まで生きたという。
さらに遍歴をつづけながら女とみれば関係を結び、ブータンへやってくる。人々はドゥクパ・クンレーの秘蹟によって仏となり浄土に送られる。悪魔の口にポコチンを突っ込み、魔女にはチンコの皮をかぶせて退治する。彼らは護法神に変身する。クンレーのチンポをみた悪魔の言葉は芸術だ。

先端を見ると、卵のようで
真ん中を見ると、魚のようで
根元を見ると、豚の鼻のようだ。

思い焦がれた美女を求め、愛し合い、彼女を洞窟に閉じ込めると、みずからの信心とドゥクパ・クンレーの加護により、まったく苦しむことなく、光の体を得、仏になったという。さらに、死の迫った老婆をクンレーが射殺し、死体を洞窟に閉じ込め浄土に送ろうとするが息子に邪魔され、右足の親指だけが消されず地上に残されるという逸話。これらはまさしくポアの思想だ。チベット仏教では、成就者は遺体を残さず天空に消えるのだとされる。死の苦痛や恐怖や悲しみを超えるため生まれたこのような思想が、やがてオウムのごとき邪教によって殺人のおしえに変容してしまうのだが、チベット思想にすでにその萌芽はあったのだ。しかし本書の表現は軽妙で重苦しさを感じさせない。クンレーの説法はこんなぐあいだ。

陰核はきれいな三角形をしているが
土地神様の供物には適さない。
膣液は陽に当たっても乾かないが
渇きを癒すお茶には適さない。
陰茎は柄が太くて先端が大きいが
釘を打つ金槌には適さない。
  (以下略)

岩波文庫でこれだけ下ネタ満載の本も珍しいのではないか(もっとも中世ヨオロッパあたりにこうした下ネタ文学はけっこうある)。結びにはこんな慶賀の詞がのべられる。

師の伝記を聴くことにより
  (略)
若い娘の欲情が呼び覚まされ、喜びの宴が開かれよ。
若い男に勇猛心が湧き、亀頭は角のように雄々しく勃ち、喜びの宴が開かれよ。
老いた女が悲しければ、膣に大根を入れて、喜びの宴が開かれよ。
若者たちが奮い立ち、思い通りに事が成就し、喜びの宴が開かれよ。
生き物の苦しみがなくなり、三界の一切衆生の喜びの宴が開かれよ。
諸事万端が成就し、一切衆生が仏果を得、喜びの宴が開かれよ。

かくして、今日も正義はドゥクパ・クンレーによって守られた。

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