詩と箴言:大伴旅人と山上憶良

世間はむなしきものと知る時しいよよますます悲しかりけり(大伴旅人)
令和元年と聞くたびに明和電機を思い出してしまう。

新元号が決定したわけだが、私は元号否定論者ではない。なぜなら、日本の帝国主義よりキリスト教を先兵とした西洋植民地主義のほうが遥かに悪質で、世界中に害毒を撒き散らし、現在まで世界を混乱させていると思うからだ。
それでも、もし「安」の字が使われるなら元号は用いまい、と誓っていたので一安心。けれど令和は「命令に和する」という意味があるなどとの噂を聞くとやはり穏やかではない。

元号のネタ元が万葉集以前に漢籍だったということについては早くもネット上であれこれ話題になっていたが、日刊ゲンダイの記事「安倍政権と酷似「令和」元ネタは腐敗政治を嘆く内容だった」が要領よくまとまっている。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/251145

「張衡が仕えたのは、6代皇帝の安帝だ。その治世は宮廷官僚の宦官が幅を利かせ、忖度や賄賂の横行を招いた。嫁の閻后も、側室の子を殺したり、縁故政治を増長させるなど、やりたい放題だった人物として評判が悪い。中央政府の腐敗に我慢できなかった張衡は順帝(8代皇帝)の時代に朝廷を辞し、「帰田賦」を書いたのだ。」

暗愚で傲慢な不正選挙の偽総理を、護憲派の碩学が手玉に取って一発かました、と考えると痛快で、この元号にもいささか愛着が湧いてくるというものだが、ほんとうに「帰田賦」が上記のような経緯で書かれたのかはっきりしない。
令和の出典となった万葉集の一文は、四月二日の東京新聞によると大伴旅人が書いたそうだが、品川悦一教授によればこの文に旅人の体制への怒りがこめられているらしい。

「新春の好き月、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉のごとく白く咲き、蘭は身を飾ったの香如きかおりをただよわせている」(中西進訳 前出東京新聞より)

張衡「帰田賦」の部分はこう。「仲春の佳い時節ともなれば、気候は穏やか、大気は清々しい。野原や湿原に植物は生い茂り、多くの草が一面に花をつける。ミサゴは羽ばたき、コウライウグイスは悲しげに鳴く。首をすり寄せて昇り降り、さまざまな鳴き声を立てている。そんな中をさまよっては、いささかなりとも我が心を楽しませるのだ」(新釈漢文大系81『文選(賦篇)下』高橋忠彦訳)

四月六日の東京新聞コラムに師岡カリーマさんが九世紀シリアのこんな詩を紹介している。

 晴れやかな春が誇らしげに笑いながら舞い降りた
 いまにも語りだすかのような麗しさだ
 夜の帳の中でノウルーズが
 昨日まで眠っていたバラのつぼみの目を覚ますと
 秘められていた言葉を発するがごとく
 朝露の冷たさが花を開かせ
 色とりどりの刺繍をほどこすように
 再び木々に衣を着せ
 ほのかなそよ風は、恋人たちの幸福な吐息を運ぶかのようだ。

誰が誰を真似た、というよりも、すぐれた詩文は、皆このような普遍性、自然への希求を宿していることは、私の崇高な名著『詩の根源へ』に記したとおりだ。

大伴旅人といえば

 験なきものを思はずは一坏の濁れる酒を飲むべきあるらし
 なかなかに人とあらずは酒壺になりにてしかも酒に染みなむ
 この世にし楽しくあらば来む世には虫に鳥にも我はなりなむ
 生ける人遂にも死ぬるものにあればこの世にある間は楽しくあらな

という讃酒歌で知られるているが、令和出典の文は、ほかに山上憶良が書いたとの説もあるようだ。
憶良といえば、

 憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむぞ

という歌が知られている。子供が家で泣いているし、妻も帰りを待っているので、そろそろお暇致します、といった内容だけれど、伊藤益『危機の神話か 神話の危機か』では、つぎのような解釈がのべられている。
山上憶良はこのときすでに齢七十一で、泣きじゃくる子供などいなかった。ではなぜ憶良は存在しない子と若い母親を仮想したのか。
憶良罷宴歌は、大伴旅人が主催する筑紫歌壇の場で詠まれた。彼らは歌で、いまいる筑紫の地を旅先と捉え、遠い都を家と偲びつつ、「家」と「旅」を交互に詠み込んだ。望郷の歌がしばらく詠まれたのち、沙弥満誓は筑紫の国をこんなふうにうたう。

 しらぬひ筑紫の綿は身につけていまだは着ねど暖けく見ゆ

これは筑紫特産の真綿を賞美する歌という。この歌がなければ、座は望郷に流れ、収拾がつくなくなっていたかもしれない、と伊藤益はのべる。
しかしここに、ただひとり真綿を女の柔肌と解する者がいた。それが憶良だ。彼は女の肌を連想し、そのイメージを具現化する存在として、妻を詠み込んだのだという。そこには諧謔がまじり、憶良は「かあちゃんが待っているから」とみずから笑いものになることで、一座の空気を和ませようとした。ところが…
旅人は妻を喪い一年を迎えようとしていた。そんなおり、諧謔まじりに「妻」を歌うことは、座の空気を読まない、逸脱したものとなった。場は気まずくなり、憶良は退席する。前出の讃酒歌は、憶良のいない場で改めて詠まれたものという。
旅人にとって場の雰囲気を逸脱する憶良は、決して歌の友といえる存在ではなかったという。伊藤益のこうした解釈がどこまで正しいのか俺にはわからないが、万葉歌創作の一仮説として、この物語を享受するものだ。
かくして、今日も正義は、私によって守られた。

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