さらば加藤典洋

加藤典洋氏が亡くなった。この人の著作と思想に関しては、色色と複雑な感情がある。そこで、加藤周一のすぐれた文章「さらば藤純子」「さらば川端康成」に倣って、その感情を書き記し、さらば加藤典洋といおう。

加藤典洋の名を知ったのは、85年に朝日新聞に掲載された見田宗介の論壇時評だった。日米貿易摩擦の話題からはじまって、経済論壇における処方と診断のズレをながめ、加藤の論説『アメリカのの影』から戦後日米のねじれを発見してゆく見田の切り口はあざやかで(のち『敗戦後論』で加藤が論じた「ねじれ」という言葉はこれが原点だろう)、少し経って加藤の著作を図書館で読んだ。

これはじつに面白かった。とくに「『アメリカ』の影」という最初の評論は、田中康夫『なんとなく、クリスタル』と村上龍『限りなく透明に近いブルー』、両者に対する江藤淳の評価、そこから現代の資本主義体制下の文学を論ずる。江藤『成熟と喪失』はまだこの時点で読んでなかったが、これをパロディ的に下敷きにしつつ江藤の思想の軌跡を取り上げ、顛倒させ乗り越える。江藤淳論であるとどうじに戦後日本文学論でもあるという高度の離れ業をみせていたのだ。独特な文体もあって、すごい批評家が現れたと俺は夢中になった。そのころ若手とよばれていた全共闘世代の批評家では、『メタクリティーク』『複製の廃墟』を上梓していた蛙秀実も面白かったが、現代思想臭が強すぎ、加藤のほうが頭一つ抜けていたと思う。二冊目の本『批評へ』の柄谷行人や中上健次に対する批評なども面白かった。

しかし加藤の書き物にいささかの違和感を覚えていたのもたしかだ。はじめは富岡幸一郎との、世界と内面をめぐる論争だったと思う。加藤の論述がよくわからなかった。そのころ岡田有希子が自殺し、自分も衝撃を受けたし、同年代の若者が後追い自殺していた。こうした人たちに、世界に支援せよとか自我がコンタクトレンズのように薄くなって消滅するだのといった議論が通じるのか、と疑問を感じた。富岡氏に会ったとき、かの論争について尋ねてみたら、あまり思い出したくなさそうな口吻だった(中上健次は史上最低の論争と評した。ただし青木淳悟「私のいない高校」という小説を読んだとき、これは加藤のいう内面を剥奪された文学ではないかと思った)。
加藤への違和感といえば、『アメリカの影』で最初の評論では「田畑の再生をつうじて近代を獲得する」という農本主義エコロジーのような結論だったのに、二番目の評論ではエコロジー運動を揶揄するようなことが書かれていたり、文学者の反核署名にたいしてもあるところでは批判者を批判する書き方だったのに、のちには反核署名に気持ち悪さを感じるなどと書いていて、この人の整合性はどうなってるんだ、と疑問を持った。
まだある。86年だったか、文芸誌で高橋源一郎のことを「同世代に共感できる作家がいるのは嬉しい」と書いていたのに、同時期に出た情報誌には「高橋源一郎など凡庸なのかそうでないのかもわからない」と書いていたのだ。さすがにこれには呆れた。でもまだ『日本風景論』までは面白く読めたと思う。

加藤から離れたのは、湾岸戦争に際して、柄谷行人らの反戦運動を批判した一文を読んだあたりからだったろう。一人称がかつての「ぼく」から「わたし」に変化していた。とうじの加藤の心境にどのような変化があったのかわからない。その後の加藤は『ホーロー質』やら『なんだなんだそうだったのか、早く言えよ。』なんといった、わけのわからない題の本を出しはじめ、俺は加藤から完全に遠ざかった。話題になった『敗戦後論』は読んだが、アジア各国への戦争責任の謝罪よりまず国内の死者を悼むことだ、という議論は国際問題を国内問題にすり替える詭弁としか思わなかった(この問題に本気で考えるなら、自国の死者を悼むより西洋の植民地責任を追及することこそが必要だと俺は思う)。また「戦後後論」なる文章に至っては何を言ってるのかさっぱり理解できなかった。80年代には戦後民主主義者風にふるまっていたはずの加藤は、とうとう憲法九条が諸悪の根源だ、とまで発言するようになっていて、はたして鶴見俊輔はこの不肖の弟子の「転向」をどのように考えているのだろうと思ったものだ。柄谷行人が左旋回したとすれば、加藤は右旋回し、両者の立ち位置は逆転した。九十年代の加藤は迷走状態にあったように思う。

二千年すぎて、加藤は『テクストから遠く離れて』を刊行した。これは面白く、立ち読みだけでは足らず、買って読んだ。けれど同意できる部分とできない部分があったので、「木々高太郎論」では肯定的に、『詩の根源へ』では批判的に引用した。文学観はともかく、謎が残るのは、学生時代から先端的なフランス文学に親しみ、左翼学生を軽蔑していたはずの加藤が、なぜ全共闘運動に巻き込まれていったのか、ということだ。
おそらく加藤の気質はほんらい非政治的だったのではないか。そしてむしろ第三の新人に近いような、とほうもない弱さを抱えた人間だったのではないか。それが、流されるまま学生運動に身を投じたり、身の丈に合わないオピニオンリーダーのごとき地位と役割をあたえられてしまったのではないか。そうした苦悩と葛藤が、加藤の著作のあまりにも多すぎる矛盾を生みだしていったのではないか。こういった視点から加藤典洋を読む必要があるのではないか。

亡くなるのが早すぎたので訃報を聞いて驚きはしたが、俺の中の加藤はもう二十五年もまえに死んでいたのかもしれない。あらためていおう。加藤典洋よ、さらば!

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