詩と箴言:李卓吾と洪自誠

利益が貧者に行き渡らず富者の間でだけ分けられるとき、信頼が単に利益を生むための手段になるとき、喜捨の支払いが単なる重荷になるとき、男がその妻に従属して母に背き、友人をもてなして父親を冷遇するとき、モスクが騒がしくなるとき、最低の人間が指導者になるとき、尊敬ではなく、厄介事を怖れて人を接待するようになるとき、酒が大量に飲まれるとき、人々が絹を身に纏うとき、女の歌手や楽器が好評を博するとき、イスラーム共同体の最後の者たちが最初の者たちを呪うとき、それらの者たちを赤い風が焼くか、あるいは大地がそれらの者たちを飲み込むか、あるいは獣に変えてしまうことを予期しなさい。(『ティルミズィーの伝承集』)

池内恵『現代アラブの社会思想』で紹介されている、ハディース(イスラム偉人の言行録)の終末をめぐる言葉。まるで現代日本の光景だ。
イザヤ書を読み、あらためてその表現のすばらしさに打たれる。

 災いだ、悪を善と言い、善を悪と言う者は。
 彼らは闇を光とし、光を闇とし
 苦いものを甘いとし、甘いものを苦いとする。
 災いだ、自分の目には知者であり
 うぬぼれて、賢いと思う者は。
 強い酒を調合することにかけては
    豪傑である者は。

 これらの者は賄賂を取って悪人を弁護し
 正しい人の正しさを退ける。
 それゆえ、火が舌のようにわらをなめ尽くし
 炎が枯れ草を焼き尽くすように
 彼らの根は腐り、花は塵のように舞い上がる。

とか、また、

 まことに悪は火のように燃え
 茨とおどろもなめ尽くす。
 森の茂みに燃えつき、煙の柱が巻き上がる。
 万軍の主の燃える怒りによって、地は焼かれ
 民は火の燃えくさのようになり
 だれもその兄弟を容赦しない。
 右から切り取っても、飢えている。
 左に食らいついても、飽くことができない。
 だれも皆、自分の同胞の肉を食らう。

といった言葉は、堕落から終末にいたる道筋を容赦なく抉る。
そして楽園への希望。

 狼は子羊と共に宿り
 豹は子山羊と共に伏す。
 子牛は若獅子と共に育ち
 小さい子供がそれらを導く。
 牛も熊も共に草をはみ
 その子らは共に伏し
 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
 幼子は蝮の巣に手を入れる。
 わたしの聖なる山においては
 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
 水が海を覆っているように
 大地は主を知る知識で満たされる。(以上 新共同訳『聖書』から)

弱き者も強き者もともに生きる世界への希求を捨ててはならないのだ。
ところでイザヤ・ベンダサンは本多勝一との論争で、イザヤ書を利用して、正義をふりかざすことを非難した。ベンダサンのいっけん含蓄に富んだ一文が、じつはイザヤ書を誤読しまくった噴飯ものだということを浅見定雄は微に入り細を穿つ調子で完膚なきまでに葬り去ったが、いったいイザヤ書をどう読めばベンダサン流解釈が出てくるのか。じつに興味深い。

つぎは明末の特異な思想家、李贄(卓吾)「焚書」(溝口雄三訳 中国古典文学大系55『近世随筆集』)の言葉。

 生に必ず死あること、昼に必ず夜あるがごとくである。
 死せるもののふたたびは生き返らないこと、逝くもののふたたびは返り来ぬがごとくである。
 人として生を欲しないものはない。そしてしかもついにこれをとどめて逝かせないでおくことはできない。
 人として逝くものを傷まないものはない。そしてしかもついにこれをとどめて逝かせないでおくことはできない。
 もはや久遠に生き長らえさせることができないのならば、生は欲しないがよい。もはや逝かせないでおくことはできないのならば、逝くものは傷まないがよい。
 故に私はただ、死は必ずしも傷まず、ただ生あることこそ傷むべきだ、と言うのみである。
 逝くものを傷むことなかれ。願わくば生をこそ傷まん。

吉田松陰は『焚書』を愛読したそうだが、幸田露伴は李卓吾をかなり悪く書いている。反体制的な言動が気に食わなかったのだろうか。
つづいて李卓吾と同じ時代に生きた洪自誠『菜根譚』から(今井宇三郎訳)。

道徳に棲守する者は、一時に寂寞たり。権勢に依阿する者は、万古に凄涼たり。達人は物外の物を観、身後の身を思う。寧ろ一時の寂寞を受くるも、万古の凄涼を取ることなかれ。(人生に処して、真理を守り抜く者は、往々、一時的に不遇で寂しい境遇に陥ることがある。(これに反し)、権勢におもねりへつらう者は、一時的には栄達するが、結局は、永遠に寂しくいたましい。達人は常に世俗を越えて真実なるものを見つめ、死後の生命に思いを致す。そこで人間としては、むしろ一時的に不遇で寂しい境遇に陥っても真理を守り抜くべきであって、永遠に寂しくいたましい権勢におもねる態度を取るべきではない。)

世を渉ること浅くば、点染も亦浅く、事を歴ること深くば、機械も亦深し。故に君子は、其の練達ならんよりは、朴魯なるに若かず、其の曲謹ならんよりは、疎狂なるに若かず。(処世の経験がまだ浅いと、世俗の悪習に染まることもまた浅いが、経験が深くなるにつれて、世の中のからくりに通じることもまた深くなる。それ故に、君子たる者は、世事に練達になるよりは、むしろ飾り気がなく気が利かない方がよい。そして礼節の末にこだわりていねいすぎるよりは、むしろ粗略で志のある方がよい。)

洪自誠が愛読した伊川撃壌集の詩を紹介しようと思ったが、長くなったのでまた今度。

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