小林勝『断層地帯』の衝撃

九月になったというのにまだ酷暑がつづく。先月はあまりの暑さに原稿どころか本を読むことさえままならなかった。文章を書くのも本を読むのもひとつの身体訓練で、すこしでも休めば気力が萎え、読み書き能力は衰える。なんとか本を読めるようにと、評論の資料は脇に置き、まず手近な本を読むことにする。

小林勝の小説『断層地帯』を知ったのはつい最近のことだ。岡庭昇『偏執論』に、1950年代前半の共産党を舞台にした「六全協小説」なるものがあると記されており、この作品があげられていた。
《「六全協小説」のすぐれたトップバッターであり、かつ典型的に五〇年代の誠実な党活動家たちの青春を、くるしい哀惜とともにとらえかえした小林勝の『断層地帯』》《党の武装闘争路線に忠実に従い、とらえられた北原たち青年党員は、獄中で党が自己の方針をなしくずしに全面撤回するという事態に直面しなければならない。彼らは全身をそこに投入する情熱を賭けた行為を、ほかならぬ党そのものから裏切られることによって終わらせなければならない。直面している権力によってではなく、それと闘うために自らが踏みしめている大地の方から拒絶されるという事態のなかでは、自らの行為そのものが根柢から対象化されざるをえなかったのである。》
そのとき俺は、そんなジャンルがあったのか、とぐらいにしか思わなかったけれど、作者も作品もまったく聞いたことがなかったので、すこし興味を惹いた。いわゆる「文壇」の人ではないようだし(別作品で芥川賞候補になったことはあるらしい)、五味川純平みたいに大衆に広く受け入れられたわけでもないだろう。『戦後日本文学史・年表』の中で松原新一は《日本と朝鮮、日本人と朝鮮人との関係という深く歴史の陰刻のきざみこまれた困難なテーマを身をかけて追求した小林勝の問題意識は、(略)日本の文学者が「朝鮮」をみずからの創造意識の本質にかかわる問題としていち早く自覚したものとして、注目されねばなるまい》と評している。
今年に入って、篠田一士の文芸時評『創造の現場から』を読んでいたら、大西巨人の小説に触れつつこう書いていた。《いまはもう、憶えている読者も少ないが、小林勝が、二十五年も昔に発表した、全五巻の『断層地帯』における、火焔ビン事件をめぐっての内部告発のほうが、はるかに見晴らしがよく、主人公をはじめ、男女さまざまな人物の言動に、ぼくのような政治音痴の読者にも、熱い想いをかきたてるほどの文学的な説得力があった。》
小林勝は若くして亡くなったが、篠田と同年生まれだと知る。おそらく、思想や境遇は大きく異なれども、同世代人としていくばくか共鳴するところがあったのだろう。
そうするうち、図書館のリサイクルコーナーでこの本を見つけた。全五巻を一冊にまとめたもので、なかなかに分量はあったが、偶然の贈り物とおもい、持って帰った。しばらくほったらかしてあったのだけど、最初に記した理由で、読み始めたのだ。

いや読み応えがあり、ぐいぐい引き込まれる。時代背景も共産党の内情もまったく知らなかったけど、篠田一士がいうように、見晴らしがよく、わかりやすい。内容的には高橋和巳『日本の悪霊』を思い起こさせるが、高橋の異様な情念がこもった文体や、屈折した人間観とは違う。描かれるのは、暗く貧しく、重苦しい世界なのに、理想を目指して闘う青年たちは純粋で、かすかな清涼感がただよう。岡庭昇が指摘するように、これは一つの青春小説なのだ。

今年初めに、ふと宮本百合子の「風知草」という小説を読んでみた。終戦後、獄中から解放された良人の重吉とともに、新しい日本の民主主義を目指してすすむ主人公ひろ子の、つつましくもおだやかな生活を描き、楽天的に新たな社会を寿いでいる。たわいない内容といえばいえるけれども、宮本百合子の文才はやはり非凡なので、読ませてしまう。
この重吉のモデルこそ言わずと知れた、獄中にあって非転向を貫き、のち日本共産党の最高指導者として長く君臨しつづけた人物だが、『断層地帯』は、共産党下部組織の会合にある不気味な人物が姿を現すところから幕を開ける。

《男は五十歳を越えていると見えた。だが、それはあてにならない。党の中には、治安維持法その他による、拷問や長い間の拘置生活で、年齢以上にふけこんだ顔をしている男や女がいるのだから。男の顔は長く、艶がない。その顔色は日本人ばなれした、くすんだ灰色で、うっすらとしみがある。太い眉の下に、ナイフで切りこんだような鋭い細い眼があり、それが時々きらっと光る。硬い光である。唇はほとんど顔の肌と変わらない色で、ただ少しばかり、紫がかっている。この顔は十年近い監獄の生活と、ひどい拷問を耐えてきた顔だと北原は思う。余り拷問がひどかったので、病気にかかり、発音を正確に出せなくなった男、十年近く独房の中で壁をにらんできた男、――男の顔は日本人なら誰でも持っている、あの温かい光を吸った土の色や萌え出す雑木の芽の色をすっかり失って、壁とコンクリートの塀の色に同化してしまった。男の顔は、建てられて以来、火の熱というものを決して知らない冷えきった壁だ。男の眼は明るい夏の陽の光には耐えられないが、しかし暗闇の中では何ものも見逃すことなく鋭く光る眼だ。それは、悪を、黒いものを、虚しいものを見逃しはしない。それは容赦なくあばきたてる。男を見ていると、党歴も浅く、弾圧を直接肉体にうけた経験ももたない北原は次第に息苦しさを覚えてくる。自分など想像もつかない生活を送ってきた男、北原の胸に恐怖にも似た気持がつきあげる。男をじっと見ていると、北原の体と心の中の柔らかい部分が、段々とおしつけられ、充血し、ふるえだすような気がする。》

共産党の上級機関直属の指導者であるらしいその男は、主人公北原をはじめとした、「細胞」とよばれる地区の末端の若い党員たちを前に、朝鮮戦争勃発とともに日本で起ったアメリカ帝国主義による陰謀と、それに抗するための軍事組織の必要を説いて消えてゆく。

状況を説明しておくと、物語が始まる直前のこと、第五回の共産党全国協議会において、党は日米帝国主義に対する武装闘争を行う方針を定めた。それにより各地で火炎瓶闘争が続発する。しかしこのことで共産党は大衆の支持を失い、選挙で大敗する。第六回全国協議会で党は実力行使を撤回し、議会制民主主義に則った改革を目指すことになる。こんなふうに時代と党に翻弄され、挫折した青年を描いたのが「六全協小説」とよばれるものなのだ。

指令を受けた北原たちは、さまざまな行動に出るが、やがて大衆を巻き込んだ大規模な突発的デモが予定され、警官から大衆を守るという名目で、火炎瓶闘争が計画される。デモ隊と警官隊が衝突し、行動部隊として参加した北原たちは火炎瓶を投げるが、隊長の岡がまっさきに逃げ出したため、現場は混乱し、デモにまぎれていた私服刑事により、北原ら三名は捕えられてしまう。

かなりの部分、小林勝自身の実体験が反映されているようで、自伝小説の趣もある。松原新一のいうとおり、作者が生まれ育った朝鮮や、在日を含む朝鮮人たちとの関係は大きな比重を占めている。取調べから、留置所、拘置所、公判の様子が迫真の筆力で剋明に描写される。それだけでなく、逮捕されるまでの北原の生活や、さまざまな過去の回想も詳述される。食べ物の描写が多いのも印象に残る。「食べる」という行為が生の根源にある快楽だということを小林勝は身に沁みて知っていたのだ。篠田一士もここらに感興をもよおされたのかもしれない。拘置所で正月に支給される餅の記述など秀逸だ。

作者は決して北原を正義の体現者のようには描いていない。彼はときに利己的で、多勢に流され、他人を傷つける。
米軍基地で働く幼なじみで恋人の順子は政治活動に理解を示さず、その無邪気さが北原をつねに苛立たせている。あるとき彼女は北原の愛を試すため、悪戯心で嘘をつくが、それが北原の怒りを爆発させてしまう。また彼はかつて、党を批判した友人の柴山の明晰な論理に太刀打ちできないまま、規約に反した強引な除名に加担しており、そのことが彼の心に暗い影を落とす。

前半は北原一人の視点から描かれているが、後半になると、ともに逮捕され拘置所にいる花村や、闘争に参加しなかった同じ地区の若い党員の城と小田、北原の弟健二といった登場人物を巻き込んだ群像劇となってゆく。公判を経て北原ら三人は保釈を認められるが、党の方針に疑問を抱きはじめた彼らは、敵前逃亡したうえスパイの嫌疑をかけられた岡の処遇をめぐって、地区委員や上級機関、そして、あの壁のような顔の男と対決するのだ。

共産党という組織の非人間性(現在の共産党は志位和夫のもと、市民政党に生まれ変わりつつあると俺は思うが)、国家や警察の卑劣さ、人間存在の愚かさや優しさや狡猾さなどをたくみに描きだすこの小説を、現在の香港デモや、日本での政府の横暴に対する抗議活動、日韓関係などと重ねあわせながら読む。党に逆らう北原たちの行動は、創価学会員ながら辺野古基地建設に反対し、れいわ新選組から出馬して公明党を敢然と非難した野原善正の勇気を思わせる。《数かぎりない誤りをかさね、同志を死へ追いやったそのしみは一生消えることはないが、いまこそ、他人から与えられたものではない、日本共産党の一つの細胞の誕生だ。あやまちの千倍のあやまちをくりかえしつつ、孤立と反感と不信のどん底から新しい細胞を作って行こうとする日本共産党員の誕生だ。》

左翼文学にもこれほどの傑作があるのだと感嘆せずにはいられない。復刊させて、文庫になっていてもおかしくない名作ではないか。

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