中ネタ集2

フェイスブック転載の中ネタ集

8月19日
ロレンス「黙示録論」の新訳が出たようだ。これまで福田恆存の訳で知られてきたが、福田は黙示録論の核心部分には共感せず、共産主義批判にだけ理解を示してきたのではないか。
かつて私は、福田恆存と武智鉄二の論争を、西洋文化の受容と伝統文化のありようをめぐる対立とみたが、充分展開できずに終わってしまった。
のち崇高な名著『詩の根源へ』でT・S・エリオットとエドマンド・ウィルソンの対立に、同じ問題が、より深く、さらに屈折して展開されているのをながめ、両者を超える存在としてロレンスを取り上げたのだが、福田恆存はロレンスよりエリオットに近いのではないか。
文芸評論家とよばれる人たちは、知ったかぶりはするけど、そのじつ案外ものを知らない、ということを私は知っている。篠田一士が「ウィルソンだけが翻訳されない」と嘆いたころにくらべるとずいぶん翻訳は出されたが、自分のまわりの評論家は困ったことにウィルソンを知らない。豚鍋直己や東豚吉のような無残なポストモダンの残党にならないためにも、『詩の根源へ』は読まれなければならないのだ。

8月21日
ムハンマド・ブン・ハサン・アルジール選著『イスラームの預言者物語』(水谷周編訳 サラマ・サルワ訳)を読んでたら、終末期に現れるダッジャールなる偽の救世主のことが詳述されている。池内恵の本にもこの偽救世主が書かれていたと記憶する。イスラムの終末にはマフディーなる救世主も現れるとされる。イスラムの終末観は資料が少ない。コーランとハディースはきちんと読んでおかねばならない。

9月17日
落語とは、歌舞伎や人形浄瑠璃のように全国に普及したものではなく、江戸(と上方)の庶民の風俗を描いた、いわば民俗芸能(中心と周縁でいえば周縁)だったのではないか。そうした下町の民俗芸能が文明開化以降大衆化し、レコードやラジオによって全国的に普及され、大衆芸能に生まれ変わるため、モダニズムの風俗を取り入れた、新作や改作が必要とされる。戦前は新作(改作)落語全盛だった。「古典落語」という名称を考案したのは安藤鶴夫らしいが、「古典」という語には、鼻の円遊から戦後の歌笑にいたるモダニズム落語を拒否し、江戸の風俗を守る意味合いがこめられていたのではないか。
だがもはや江戸下町が解体し、歯切れのいい江戸っ子弁をあやつる落語家も志ん朝を最後にいなくなった。江戸っ子でもない落語家が江戸っ子のふりをする「古典落語」と、着物を着て座布団に座り現代人を演ずる「新作落語」という二つの時代錯誤をどう乗り越えるのかが今後の落語の課題なのではないだろうか

かくして、今日も正義は、私によって守られた。

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