詩と箴言――宗教の詩(うた)

人間と人間の神は一つである。人間にとって神であるものは人間の精神・人間の魂であり、人間の精神・魂・人間の心情であるものは人間の神である。神は人間の内面があらわになったものであり、人間の自己がいいあらわされたものである。宗教とは人間がもっているところのかくされた宝物が厳粛に開帳されたものであり、人間の最も内面的な思想が白状されたものであり、人間の愛の秘密が公然と告白されたものである。(フォイエルバッハ『キリスト教の本質』船山信一訳)

フォイエルバッハは神を人間の本質のあらわれとみる。神が人間を創ったのではない。人間が神を創ったのだ。フォイエルバッハは神の死を宣告し、人間主義を高らかに謳いあげる。だがマックス・シュティルナーはフォイエルバッハを批判しつぎのようにのべる。その言葉はまるでニーチェの魁のようだ。

新しい時代の入口には、「神人」がたっている。ではその終る出口では、神人における神だけが消え失せるのだろうか、そして、神人における神が死にさえすれば、神人は現実に死んでしまうものなのだろうか。人はこの問いに思いいたらず、啓蒙の事業、神の克服が今日赫々たる勝利の結末をとげるにいたったとき、事終れりと考えたのであった。人は、今や――「天上なる唯一の神」とならんがために、人間が神を殺したのだ、とは気づかなかったのだ。われらの外なる彼岸はたしかに一掃され、啓蒙者たちの大いなる企ては成就されはした。しかしわれらの内なる彼岸は一の新たな天国となり、また新たな天国襲撃へとわれらに呼びかけるのだ。神は席を譲らねばならなかったとはいえ、ただしそれは、われわれにではなく――人間なるものに、なのだ。神人において、神の他になお人間なるものが死にもしないうちに、神人は死んだなどと諸子はどうして信じるのか。(『唯一者とその所有』片岡啓治訳)

フォイエルバッハは神=人間という思想を見出したが、「人間」なる価値観は個人ではなく、国家や共同体といった場に重きをあたえてしまう。そして国家こそが神格化される。シュティルナーはそんな類的存在としての人間を否定し、何物にも帰属しない個を謳いあげるのだ。
エンゲルスは近代の科学思想を渉猟し、カントからダーウィンにいたる自然科学諸分野の研究と発見が、それ以前の静的な自然観から動的に転変する世界像を見出す。世界は生成と消滅を繰り返し、人間も地球も太陽もやがては滅び去る運命にあることを宣告する。唯物論者エンゲルスの宇宙的視野は、宗教的地点にまでたどりついているかのようだ。

この循環過程が時間空間のなかでいかにしばしば、いかに冷酷におこなわれるにせよ、また幾百万の太陽や地球が生まれ滅びるにせよ、またある太陽系のたった一つの惑星上で有機的生命の諸条件がつくりだされるまでにさえいかに長くかかるにせよ、また諸生物のさなかから思考力のある脳髄をもった動物が進化してきて、短期間だけ生存しうる諸条件を見いだし、やがてまた無残にも絶滅してゆくそのときまでに、いかに数多くの生物がこれにさきだって出現しまた滅亡しなければならないものにもせよ、われわれは確信する、物質はどんなに変転しても永久に物質でありつづけ、その属性のどの一つも失われることはありえず、またそれゆえに物質は、それが地球上でその最高の精華、思考する精神をいずれかの場所、いずれかの時にふたたび生みだすにちがいないことを。(『自然の弁証法』菅原仰訳)

生命科学者の柳澤桂子も小説仕立ての美しい書物でこのような認識に到達する。

言葉と視覚の発達の結果、自己と非自己を区別して認識するようになってしまった。そのような認識方法の発達する前には、自己という認識はなかった。本来の自己というものは、宇宙と一体なのです(『意識の進化とDNA』)

この言葉はイスラム最初の神秘主義者ハッラージュのこんな詩を思わせる(関根謙司『アラブ文学史』)。

 私は愛する人となり 愛する人も私となる
  私たちは 肉体の中に二つの魂を共有している
 さあ 私を見給え、彼を見給え
  かの方を見ることは そこに私を見ることになろうぞ

つぎはインドの民衆宗教家カビールの詩(『宗教詩 ビージャク』橋本泰元訳)

 カビール、おまえのカダリーの森に、心が猟をしに行く。
 肉体の花園、歓喜の鹿、狙いをつけて矢を放つ。
 王は気息の囲いの中で警戒し、容易に根を結んだ。
 禅定の弓と智慧の矢、ヨーガ行者は弓を番える。
 六輪を貫き蓮弁を貫いて、光明を放った。
 虚空の真ん中で扉を押さえた、そこには昼も夜もない。
 奴僕カビールはそこに着いた、仲間、友人をおいて。

メアリー・ボイス『ゾロアスター教』(山本由美子訳)によると、第二イザヤの言葉はゾロアスターの教義にきわめてよく似ているという。彼はバビロンを滅ぼしユダヤ人を解放したペルシャのキュロス王を救世主と讃えた。つぎに引くのはダリウス王の碑文。ゾロアスター教の真髄である徹底した平等が記されている(前掲書より)。

アフラマズダの恵みによって、私は正しい者の友であって、不当な者の友ではない。弱者が強者によって不当に扱われることを私は望まないし、強者が弱者に不当に扱われることも望まない。正しくあることが私の願いである。人が害をなすことは私の願うところではなく、もし害をなす者がいるならば、その者が罰せられないということは私の願うところではない。

最後に岡田明憲『ゾロアスター教 神々への讃歌』から、ティシュトリヤ星(シリウス)に献ずる歌の一部。

 ティシュトリヤ星、富める者、輝ける者を我らは祭る。
 年の過ぎ越しにあたり、人は、また顧問職の長も、
 さらにまた、山に住みし猛獣も、平地に生きるおとなしき〔動物〕も、
 国に良き年、また悪しき年とともに昇りゆく彼を望む。
  いかにすればアーリア人の国は収穫に恵まれるか〔と問いながら。〕
 ――彼の富と光輝により、我は彼を祭る、
 聞きとどけられるべき祭りをもって、
 ザオスラをもって、ティシュトリヤ星を。
 我らは、富み輝けるティシュトリヤ星を祭る。
 ハオマを混ぜたる牛乳をもって、バルスマンをもって、
 舌における技〔言語の神秘力〕をもって、真言をもって、
 語により、行為により、ザオスラにより、正しく誦せられし句により。
 ――存する者たちの中で、どの男性が祭祀において優れたものであるか、
 天則により。アフラ・マズダーは知り給う、
 同様にどの女性がそうであるかも〔マズダ―は知り給う〕、
 かかる男性や女性を、我々は祭る。

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