人類滅亡論序説4

 立花隆は、バラ色未来学が流行したあと、公害の顕在化によって灰色未来学が登場し、七十年代半ばにはふたたびバラ色未来学が復活してきた、と書いている(23)。円堂都司昭も、未来学ブームが起きた六十年代後半から大阪万博までを未来の時代とし、そののち七十年代前半から終末の時代が始まったとする(24)。初期には分子生物学的知を駆使して環境問題や人口増加を悲観的に論じた立花も、やがて(荒正人と同じく)宇宙開発や科学技術の発展を楽天的に寿ぐようになってゆく(八十年代以降立花的悲観論を受け継いだのは広瀬隆だったと思う)。塞翁の馬の故事のごとく、楽観論と悲観論はかわりばんこに訪れるのだ。
 そして地球温暖化に代表される人類滅亡論のあとに、新しい楽観主義が流行しはじめている。代表的な著作を挙げると、スチーブン・ピンカー『暴力の人類史』、マット・リドレー『繁栄』『進化は万能である』、すこし古いがビョルン・ロンボルグ『環境危機をあおってはいけない』(25)といったところだ(こっちも探せばまだまだいっぱい見つかるだろう)。これらは楽観主義というより、むしろ人類滅亡論に対抗した人類繁栄論と呼ぶべきものかもしれない。すこしこの楽観的人類繁栄論を検討してみたい。

 ピンカーの大著『暴力の人類史』は驚異的な書物といっていい。古典文献から諸分野最新の研究論文までを夥しく渉猟し、漫画・映画・音楽・テレビ番組さえ自在に引用し、ピンカーは近代に入り暴力がしだいに減少しているとの統計を示す。現代は人類史上もっとも平和な時代だという。その見解は、民主主義と自由主義の完成によって戦争や血なまぐさい革命は終わりをつげる、というフランシス・フクヤマ『歴史の終わり』に似ている。ピンカーは第二次世界大戦ののち、長い平和が訪れたと主張する。七十年ちかく大国間の交戦はない。長い平和は永遠の平和ではないとしても、大規模な世界戦争が勃発する可能性は低い。殺人や傷害事件も減少している。十八世紀以降の啓蒙思想が主導した人道主義革命によって人命は尊重され、二十世紀後半の権利革命により、弱者の権利がもたらされたことを詳細に論証してゆく。それはただ思想の力だけではなく、産業革命等経済の発展とも結びついている。権利革命の原因として重視されるのは民主主義社会の確立と、モノを主体にした経済から情報主体の経済への移行だ。人道主義革命の流れを阻むのは浪漫主義、文明化のプロセスを破壊するのは対抗文化運動とされる。秩序を突き崩す動きが、非文明化をよびさまし、社会をおびやかし、暴力を復活させる。一九六〇年代に入り、既成の価値観をゆるがす反体制的な対抗文化運動が盛んになるにつれて、暴力事件は増加したが、国家が賢明となり効率化された九〇年代にはふたたび暴力の減少が始まったという。(そのわりにピンカーはこうした時代の文化的産物を反戦思想の証のように扱っているじゃないか、といった揚げ足取りは控えるとして、現代日本は反知性主義というより、この非文明化のプロセスを辿っているのではないかと思われる。政府が愚鈍化すれば、社会全体が不幸に見舞われることになる)
 たいして非国家社会・前近代社会は傷害や殺人や戦争に満ちあふれている。暴力が日常なのだ。
 ピンカーの主張はおおむね正しいとは思うのだが、いささかの違和感が拭いきれず残される。二十世紀は人類史上最大規模で殺戮が行なわれてきたのではないか。ピンカー自身こんなふうに記している。《過去に郷愁を馳せる人は、これまで決まって一枚の道徳的なカードを出せてきた。それが、近代の暴力のおびただしさである。少なくとも私たちの祖先は、強盗や、学校での銃乱射事件や、テロリストの攻撃や、ホロコーストや、世界大戦や、気リングフィールドや、ナパーム弾や、グーラーグや、核による絶滅を心配する必要がなかったではないか、と彼らは言う。たしかにジャンボジェットであろうと抗生物質であろうとiPodであろうと、近代の科学者とテクノロジーがもたらせる苦しみを相殺できるほどの価値はない。》(26)
 にもかかわらず近代が平和になったことの証明として、ピンカーは非国家社会と国家社会との戦死者数を人口比率によって割出し、可視化し、比較する。そうすると南米北米の先住民の一部などは、その社会の六割が戦死しているというのだが、いくらなんでもこれは特異な状況なのではないか。しかしそこで何が起こったかは、ピンカーの著作には記されていない。国家社会をみると、割合としての戦死者数は激減するのだが、これって暴力が少なくなったというより、世界人口が幾何級数的に増加したんじゃないのか? だから第二次大戦の死者数などはかぎりなく無に近くなってしまう。こんな結果を石原吉郎が知ったら、どんな感慨を洩らすだろうか。
 狩猟採集民の社会では戦争が常態として存在するとすれば、現代社会ではさまざまな不幸が偶然積み重なった、まぐれによって戦争は勃発する。マルコム・グラッドウェルはピンカーに反論し、《核弾頭が80%減っても、たった一発が、たった一人のクレイジーな人間の手に渡れば、私たち全員が吹き飛ぶ可能性があるのです》《戦争そのものが恐ろしく激烈になったのなら、次の戦争までの間隔が長くなったことは大した慰めにはなりません》と語る(27)。
 そりゃたしかに、戦争が日常の社会より、非日常の社会のほうがいいに決まってる。けれども、戦争が幾何級数的に増加する人口を抑えるというマルサスの洞察のように、ピエール・クラストルは、戦争が共同体を分離させ、統一を阻み、文明へと成長することを抑止する、国家に抗する社会の装置だと唱えた(28)。この発想はクラストル個人の解釈にすぎず、ピンカー寄りにみれば浪漫主義的で、なんら客観的な論証はされてないのだけど、社会を巨大化させない、ということは、環境を大規模に破壊させず平衡を保つことを意味するのではないか。戦争の被害は死者の数だけでは計れない。つまり俺はピンカーが環境破壊という自然に加えられる暴力を失念しているように思うのだ。

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