人類滅亡論序説5

 ピンカーは言語は自然淘汰によって発達し進化してきたとつねづね主張している、いわば淘汰原理主義者のひとりなのだが(その本尊はダーウィンだが、現在最大の布教者は利己的遺伝子でおなじみリチャード・ドーキンスだろう)、人間の本性は一万年のあいだ一定で、社会間の行動の違いは環境要因によるとし、遺伝子があたえる影響については一部留保しつつも懐疑的のようだ。しかしドーキンスの弟子というかドーキンス派の番頭格というべきマット・リドレーは(貴族らしいが)、人間社会の変化をダーウィン的進化とほぼ同一の過程を経たものとみなす。《かつて科学者は文化に進化は起こりえないと反論したが、それは文化は独立した粒子ではないし、DNAのように忠実に複製したり、ランダムに変異したりしない、という理由からだった。しかし、この反論は正しくない。伝達される情報に一定の凝集性、伝達時の再現忠実製、そしてイノベーションにかかわるランダム性や試行錯誤がある限り、ダーウィン主義的な変化はいかなる情報伝達系においても避けられない。文化が「進化する」という記述は隠喩ではないのだ》(29)とリドレーはのべている。(ただリドレーは、文化の進化が遺伝子を変異させるというのだけれど、十年ほど前に書かれた著作では、DNAにデザインされた脳は文化とは無関係に発達し、遺伝子が文化を生みだした、というより、文化を生みだす力を持った遺伝子があらかじめ存在するのだと主張していて(30)、その意見はいくらか変化しており、今後も研究の進展に応じて変りうる。)
 遺伝子理論をはじめとする自然科学最新の成果を武器に、さらに該博な人文・社会科学の知識を加えて、文化や経済や科学技術や政治や道徳や宗教にいたるまで、人間社会は淘汰による進化を遂げてきたとする進化万能論をたずさえ、合理的楽観主義を唱え、マット・リドレーは人類がますますの繁栄をみせていると主張する。交易による経済の発展、科学技術による生産の向上、自由の獲得も欠かせない要素だ。その発想はピンカーと軌を一にしている。
 しかしやっぱり俺にはこうした楽観主義は疑問が残る。リドレーは化学肥料・農薬・遺伝子組換え等を駆使した、緑の革命とよばれた農作物の増産によって、自然破壊を伴う大規模な開墾なしに、人口爆発の危機や飢饉も回避できるとのべる(31)。安全が確実に保証されているのなら、できるかぎり狭い土地で最大の収穫が得られるほうがもちろんいい(マルコム・グラッドウェルはこの発想をSFの読みすぎと揶揄しているが(32))。でも緑の革命に関しては、生産手段の危険性や巨大企業の搾取による伝統的生活の破壊があり、インドでは宗派の対立抗争が引き起こされたと指摘するバンダナ・シバ(33)の激しい批判もあって、その是非や実状は俺にはよくわからない。しかしリドレーはシバの批判に具体的に反論せず、その発言をマリー・アントワネットに重ねあわせる印象操作をおこなっているだけなのが気にかかる。リドレーはほかにも、破滅が迫っていると訴えればノーベル平和賞が貰えるとか、未来を悲観する本が書店に山積みになっているとか、人類滅亡をうたう言辞が電波にのらない日はないなんて嫌味を連発していて(34)、ピンカーも楽観論より悲観論のほうが受ける評論の市場原理があるというのだが(35)、はたしてそんなもんあるのか? ピンカーとリドレーは、前述した「人類の未来は明るいか」という討論会で肯定派としてタッグを組んでいるのだが、そこで進歩に疑いを抱くアラン・ド・ボトンは、正反対に、この商業的な世の中で何かを売るには、未来についてポジティブな印象を与えねばならず、ゆえに明るい雰囲気が好まれるとのべている(36)(討論自体は、肯定派が実証可能な数値を重視するのにたいして、懐疑派は芸術や内面といった幸福感を問題にしていてあまりよく噛みあっていない)。メデアにとっては、人類の破滅を訴えようと繁栄を謳歌しようと、ウケればいい。ともかく世界的な影響力を持つ合理的楽観論者が悲観論に対してやっかみめいた発言をしてみても無駄な嫌味でしかないだろう、と思うのだが、ピンカーとリドレーの言説にはけっこう無駄な嫌味が多いのだ。くらべると《期待が裏切られたうぶな楽観主義者が愚か者に映る一方で、悲観主義者の場合は、自分の誤りが明らかにされても、なおその周囲に深遠さや真摯さといった雰囲気がただよいつづける。だから楽観論より悲観論の道を選ぶほうが安全なのだ》(37)というフランシス・フクヤマの言葉はおなじ嫌味でもはるかに含蓄に富む。
 もうひとつリドレーの説で興味深いのは、都市住民のほうが田舎の生活よりも自然生態系にあたえる影響は少ないとする意見だ。都市はすでに世界人口の半分を擁しているが、占める面積は陸地の3パーセントにすぎないという(38)。かつて仏人の批評家は人工的都市東京の中心に位置する緑ゆたかな場を空虚と表現したが、それを陰画と陽画のように反転させ、森林にあふれた自然にとりまかれた中、バベルの塔のような高層建築が密集する限定された保護区域にだけ人間が棲息している都市を、俺は空想する(SFあんま読んでないのに)。人と自然がいりまじって共存するのではなく、人間は人間、自然は自然というふうに切り離され、人工空間が孤島のように点在する光景。地球の中心にまばらにそそり立つ都市という空虚。人間と自然はもはやこのようにしか共存しえないのかもしれず、たがいに傷つけあわないそんな世界が実現すればある意味これが理想的な状態なのかもしれない。
 でも現実には、そのように自然と人間は存在していない。都市に人間が密集し、田舎の村が過疎化していても、やっぱり自然は大規模に破壊されつづけているのではないか。リドレーは、ボルネオのオランウータンがバイオ燃料生産のためのアブラヤシ栽培を原因とする森林破壊の被害にあっていると指摘するが(39)、これは環境保護論者の責任というより、地球環境の保護を名目にしてまで利益をあげようと自然破壊をつづけ、野放図に拡大する人間の欲望(早い話が資本主義)こそが根源にあるのではないだろうか。ボルネオの密林破壊と猩猩殺戮はリドレーのいうとおり温暖化よりすみやかに解決すべき大問題だとしても、これじゃまるでエコロジストだけが環境破壊を行なっているような印象操作に思えてしまう。

この記事へのコメント