人類滅亡論序説6

 リドレーは、世界の進歩にともない自然生態系は回復しつつあるという。この説に論拠をあたえたと考えられるのがビョルン・ロンボルグだ。ロンボルグもまた、社会は進歩し、自然との関係はどんどん改善され、人類はなんだかんだいってますます繁栄している、と数多くの統計を示して主張する(40)。ところが、悲観的な環境保護論者も同じ資料を参照してるのに、まったく違った結論を導きだしている。自然生態系は破壊され資源は減少の一途をたどり人類は絶滅の瀬戸際にいる、と。これはどういうことなんだろう。
 ロンボルグによれば、こうしたありもしない環境悲観論が生まれる背景には、公共の資金でまかなわれる研究の偏り、保護団体の政治的利害、商売のため終末を歓迎するメデアなどが存在するせいだという(41)。たしかに危機を煽ることで利益をむさぼる輩は少なからずいるだろうし、英米の自然保護運動には白人優位の人種差別が反映されているらしく、梅崎義人はこうした傾向を環境帝国主義と呼んでいる(42)。
 けれども、この問題は立場を逆にしても変わらないことは注意すべきだろう。環境被害を否定することで資金を得ている研究者もいるだろうし(43)、さっきもみたようにマスメデアは終末を煽ろうと繁栄を煽ろうとウケればいい。カネにならなければたとえ深刻な事実であっても報道されないことは、昨今の良識ある日本人なら痛感しているはずだ。
 三度目になるが、俺はロンボルグの主張にも直感的に疑念を抱く。正しい部分もあるだろうが、としても、これほど人間が繁殖して大規模な破壊を行なっているのに、地球生態系に影響をおよばさないはずないじゃないか、と思う。だがロンボルグの本は環境問題を多岐にわたって網羅していて、そのすべてを逐一検証してたら死んでしまう。とりあえず「森林はなくなりかけているのか?」という章から、気になる点を二三みておくにとどめよう。
 森林伐採について、ロンボルグはFAO(国連食糧農業機関)の調査に依拠して、森林は回復どころか増加しているとのべる。しかしFAO最新の統計をみると、森林は減少していると記されている。ロンボルグより十年近くまえに環境保護運動を徹底批判した北村美遵さえも《FAOは各国政府機関の報告や現地調査に加えて、人工衛星によるリモートセンシングをも援用しながら世界の森林面積とその消長を把握することに努めているが、いまだに途上国については明確な数字がない》(44)といい、推定でも熱帯雨林は消失しつつあるとのべている。石弘之によれば、各国から収集されるデータの質には問題があり、途上国の七割以上は調査をほとんど実施しておらず、変化を正確に評価するのは不可能に近いという。石はまた、FAO調査は二〇〇一年から森林の定義や推定の方法を修正したため、面積が増加したことになり、以前のデータとの比較は困難だと指摘している。森林消失の定義も各機関によって異なり、FAOの定義では、ある森林が著しく破壊されてもその状態が十年未満のばあいは森林として分類されることもあるという(45)。
 と、なると、森林消失については、レスター・ブラウンをはじめとする環境保護論者がデータを改竄捏造してるわけではなく、基礎資料に現地報告など独自の調査を加味して分析しているから、まったく違った結果が出てくるのではないのか。
 ロンボルグは熱帯雨林が地球の肺だとする意見に反対し、植物は酸素を生成するが、腐敗するときには同じだけ酸素を消費するため、安定した森林では収支が打ち消しあい、酸素は生産も消費もされないという。《もし地上、海中のすべての植物が枯れて腐敗したとしても、このプロセスで消費されるのは大気中の酸素の一%に満たない》(46)という。つまり地球上の植物が生産する酸素は一%しかないということだ。この理屈だと全世界の森林が残らず消滅してもほとんど問題ないことになってしまうが、ほんとだろうか。
 大気における酸素と炭素の原子量は地球初期から変化がない(47)というのだが、酸素濃度は六億年ぐらい21パーセントでずっと一定しているらしい。その同量の原子がどう配分されるかが問題なのだ。こうした循環は人間や生態系をも超えた地球全体のふくざつな活動が関与しているようなのだが、まだよくわかっていない部分が多く、難解かつ煩瑣なので省く(48)。
 問題点を森林にかぎって、かなり単純化して説明すれば、植物は光合成によって二酸化炭素を吸収し、酸素と炭素に分解して、酸素は放出、炭素は体内に蓄える。樹木が枯れ、朽ちはて、腐敗すれば炭素はふたたび大気中に放出される。しかし木の寿命は動物を上まわり、長期間炭素を体内に閉じ込めておくことができる。それだけでなく死んだ樹木が早急に土砂に(海洋植物なら海底に)埋もれ、生物分解されず堆積し、石化すれば炭素はそのまま保存される。つまり収支は打ち消しあって0になるわけではなく、大気中の酸素は収益を見込める。けれども、現代社会では森林を伐採し、埋蔵された石炭石油を掘りおこして大量に燃やすから、二酸化炭素濃度は上昇するいっぽうなのだ。つまるところ、熱帯雨林は世界の肺だという見解はかならずしも間違ってないだろう。
 こんなふうに、ロンボルグは地球生命圏における炭素循環の役割を過小評価している。だから森林の存在意義を木材として利用するか精神的安定をあたえるものぐらいにしか考えていないようにみえ、天然林を伐採しても植林すればすむかのように語っているが、他方こんな意見もある。《広い面積が伐開されると、熱帯林の回復は(あったとしても)非常におそい。回復の障害になるのは土壌の消耗だけではない。熱帯樹木の大部分はその受粉を鳥や昆虫、その他の動物に頼っている。しかも受粉できる種が一つないし少数にかぎられていることが多い。森林の消失とともに生息地が破壊されて受粉を仲介する種がいなくなれば、生き残った少数の樹木の更新は不可能になる。動物や鳥はまた、木の種子の拡散をおこなっているから、森林が伐開されてそれがいなくなれば、種子は広がらなくなってしまう。それに、たとえ頑強な種子が何とか発芽したとしても、熱帯樹木の稚苗は温度、湿度、光の変化におそろしく敏感である。開けた土地や伐開された土地で育つのは一定の先駆樹種(パイオニア)だけだ。》(49)
 ここまでみて思うのは、どうやらロンボルグは生態系の微妙な働きをほとんど考慮に入れず環境問題を語っている、ということだ(ナオミ・オレスケスとエリック・M・コンウェイ、あるいは稲岡宏蔵も似たような指摘をしている(50))。ロンボルグは生命多様性について、絶滅種の正確な数は摑めない、とする。たしかに年間に何万種もの生物が絶滅するという話は根拠のはっきりしないことなのかもしれない。でも多様性の概念を批判しつつ《自然環境では、種は他の種との競争により絶えず絶滅している》(51)とのべるとき、ロンボルグもまた、生物はたえず競争にさらされていて、環境に適応し淘汰をまぬがれた種だけが生きのびるという進化論の定番話に乗っかっているのだ。
 たしかにリドレーやロンボルグのいうように、地球温暖化をはじめ、オゾン層破壊・酸性雨・環境ホルモン・資源の減少・人口爆発など、さまざまな危機が語られてきたのに、人類は滅亡するどころか、生活水準は上昇し、ますますの繁栄を手にしている。だからといって悲観論者たちをインチキよばわりしてよいものか。ロンボルグもリドレーも、楽観論の先駆者ジュリアン・サイモンが人口爆発を憂えるポール・エーリックらと、資源の枯渇をめぐって、十年後の鉱物原料価格が上がるか下がるか賭けをし、首尾よく勝利した逸話を記しているのだが、アラン・ワイズマンによれば、当時の世界不況が工業用金属の需要を押し下げただけで、後の十年だったらエーリックは勝っていたかもしれないという(52)。それでなくとも大地をあちこち掘り返すことで今後どんな弊害があらわれるかわからず、じっさい害を受けてきた人たちは数多く存在するが、繁栄論者はそうした人たちを顧みない。ジョエル・レビは、ロンボルグの温暖化対策よりも貧困解決を優先すべきという意見にたいし、環境破壊が貧困を生む原因になっていることを無視している、と批判する(53)。はたして悲観主義者は「狼が来た」と嘘をつきつづけているのか。狼少年の寓話の肝は、最後にはついに狼が襲ってくる、というところにあるのではないだろうか。もしそうなったばあい、「狼なんて来るわけない」とよびかけつづけてきた者の責任はどうなるのだろうか。

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