黙示録考

きみたち花婿は(花嫁の寝屋に)はいるな。処女らは冠を装うな。きみたち婦女らは子が授かるよう祈るな。石女はこの上もない幸福感にひたり、子のない者は喜び、子のある者は悩むであろう。なんで難儀して産み、呻吟しつつ葬るのだ。また人に子があって何になる。彼らの後裔に名をつけていまさら何になる。この母は廃り、その子らは捕囚の身となったというのに。いまよりのち美しさのことを口にするな。麗しさを語るな。(「シリア語バルク黙示録」村岡崇光訳)

というわけで、エノク書・エズラ書・バルク黙示録など、黙示文学を日日読んでいる。
数百年におよぶ大国の支配に苦しめられたユダヤ民族は、ギリシャローマのすさまじい迫害に抗するため、やがて奇怪な幻想にみちた世界の破滅、救世主の登場、最後の審判による永遠の平和を待望する、黙示録を生みだした。
終末論はここからはじまるのだが、黙示録はダニエル書とヨハネの黙示録を除いてユダヤ・キリスト教の正典にはふくまれず、外典偽典という扱いを受けている。
その中では。ひとつの形式として、過去の預言者の名を借りた主人公は、天使に導かれ、天上へのぼり、神と対話する。
たとえば預言者エレミヤの書記を務めたバルクを主人公にしたバルク黙示録では、師エレミヤのようにバルクは神に問いかけ、民族の受ける苦難を嘆き訴える。神の答えは終末の啓示にある。
現在の世界は、いつか必ず滅ぼされ、更新され、義しい者だけが生き残り、永遠の平和が訪れる、というのが、いわゆる終末論だ。
そこではもはや過去のダビデ王朝の栄光を取り戻すのではなく、未来のまったく新しい世界が熱望される。一民族や一王国の終末ではなく、全世界、いや、全宇宙の終末が想像されるのだ。それは神話的・円環的な歴史観ではなく、直線的に完結し、終焉する歴史なのだ。

とまあ、弾圧されぬいたユダヤ民族は、こうした誇大妄想に頼るしか希望を持ちえなかっただろう。義しい者が迫害されるのは、神が義しくないからではないか、という神義論をはぐらかすため、終末論が生みだされたのではないかとさえ思える。こんな世の中はただちに滅んでしまえ、という絶望感と、いつかきっと新しい平和な世の中がやってくる、という希望がないまぜになっている。関根清三は預言者アモスの言葉から、ユダヤ民族が悔い改め、自力で危機を回避する可能性の思想を読み取っているけれど、数百年の絶望は、神の齎す絶対他力だけを願い、祈ることしかできなかったのだ。

さてロレンス『黙示録論』(井伊順彦訳)を読んでみた。
福田恆存訳は何度も読み、そのたび新たな発見をし、刺激を受ける真の名著だが、この新訳はじつに読みやすい。
《選民としてのユダヤ人は、大帝国の人民たる自覚をつねに持っていた。自分たちなりの難関に挑んでは何度も無残にしくじり、ついにはあきらめるほかなかった。アンティオコス四世エピファネスによって神殿が破壊されたのち、ユダヤ民族の想像世界にはまごうかたなきユダヤ大帝国は登場しなくなった。預言者たちは永久に沈黙した。ユダヤ人は延引されし運命の民となった。このあと予見者たちはアポカリプスを書き始めた。》《神殿が二度目に破壊されたのち、(略)ユダヤ人は選民による現世の勝利という夢をあきらめた。そうして執念深くも、非現世の勝利をめざして動きだした。黙示録作者たちが始めたのはまさにこうした作業だった。選民による非現世の勝利を夢に描いて訴えるということだ。》《作業を進めてゆくには大局観が欠かせなかった。事の顛末を知らねばならなかった。このとき以前には、人々は創造の終末を知りたいとは思わなかった。この世は創られ、いつまでも続いてゆくだろうとわかれば、それで十分だった。だが今や黙示録作者たちは終末の幻像を描かねばならなくなった。》
ロレンスは前半で全否定していたヨハネの黙示録を、後半において異教の有機宇宙精神として肯定し始めるのだが、黙示文学も、のちのキリスト教との関連より、古代オリエントの思想として読むべきなのではないだろうか。
この問題については改めてきちんと論じなければならない。
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