映画「星の子」

欲に動かされ、心に動揺をきたしてどうにもならないこの世に生まれた者は、みな心が乱れ散るのは当然のことです。譬えていうならば、人間の世界に生を受けた者にはみな目鼻があるようなものです。乱れ散る心を捨てて往生しようということはとても無理です。心が動揺していながらも、そのまま念仏申す者が往生できるのであればこそ、すばらしい仏の本願というものではありませんか。(法然「和語燈録」石上善応訳)

日本の名著5『法然』(責任編集 塚本善隆)を読んでいる。配流の身となった法然に、遊女が近づき「私どものようなけがれた生活に罪を重ねる者はどうしたら救われましょうや」とたずねると、法然は「もし遊女をやめて世渡りの道があれば、速やかにその業をすてるべきだが、ほかに生活の道がないならば、生きるためにやむをえない。そのままでもっぱら念仏したまえ。弥陀如来は、さような罪人のためにこそ、弘誓の願をおたてになったのだ。ただ深く本願をたのんで、あえて卑下することはない」と答えたという。こうした真の慈悲は、これまで存在しなかったものかもしれない。
法然の思想とは、末法の世において難解な教理や厳しい修業は有効でなく、ただ念仏を唱えることこそ救いの道だとするもので、がんらい哲学的思考だった仏教が、これによって信仰になったのではないか。
しかし念仏さえ唱えればよいというこの教えはゆがめられ、頽廃をもたらし、罪悪を臆面もなく肯定することとなり、法然は弾劾迫害されることになる。どのように深く考え抜かれた思想でも、堕落を免れることはできない。

ここ一二年、神話と宗教の本ばかり読んできたので、芦田愛菜の主演映画「星の子」は興味深く、また感動的だった。
俺自身は信仰を持たない人間で、宗教に対してはつねに疑いの目を抱いていた。でも、結局、人間は何かを信じずにいられない存在だ。俺も、対象は時とともに変わっても、何かを信じて生きてきた。人は何かを(誰かを)信じなければ生きてゆけない。

生まれたばかりの赤ん坊ちひろは、未熟児で病気を抱え、家族の懸命な介護を受けるも一向に症状は改善されず、一家を絶望のどん底に突き落とす。しかしそんなとき、父親は万病に効く水を勧められる。体を拭くと発疹がおさまり、ミルクにして飲ませるとちひろは急速に回復し、すこやかに成長しはじめる。両親は奇跡を与えてくれた宗教にのめりこみ、熱烈な信者となってゆく。
映画は、中学三年生になったちひろの視点から描かれる。芦田愛菜の六年前の主演作「円卓」は、平凡な日常に反発し、変わったことを追い求め、奇矯にふるまう小学生を見事に表現した映画だったけど、本作では小学生のころからさまざまな事件が起こり、特異な家族の中ですごすちひろを淡淡と映し出す。周囲からは奇異の目で見られる両親の行動も、ちひろはすんなり受け止めている。教団の集会にも参加し、両親とは絶縁している親戚の法事にも顔を出す。
両親と衝突し家出した姉のほうがはるかに劇的な人生を歩んでいるだろうけど、映画はちひろの何気ない、しかし決して穏やかではない日常を描いている。その映像はファスビンダー監督の「何故R氏は発作的に人を殺したか?」を思い出させる(といってもこの映画、ファスビンダーはほとんど関与してなかったらしいが)。ちひろの心を揺るがす事件が起き、苦しみ、泣きじゃくっても彼女はすぐに立ち直る。そんなことがあって、彼女の両親への信頼が揺らぎはじめた冬の日、家族そろって教団の研修旅行に出かける。そこで、ちひろはしばしのあいだ、両親と別れてしまい、すれちがい、なかなか会えない(これは物語表現の常套だ)。そんな時間がつづき、夜遅くなってようやく再会した三人は、林を抜けて星空の見える空き地に腰を下ろす。心優しいちひろは大浴場の閉鎖時間を気にし、姉の出産を聞いて涙ぐむ。研修会場で姿のみえなかった両親が、施設に留まることより、自然の中で星をながめることを選択する。奇跡の水のおかげで風邪を引かなかったはずの父がくしゃみをし、家出した姉の幸せを願う。心優しい親子三人はぴったりと寄り添い、流れ星を探して夜空を眺め、余韻を持たせたまま映画は終わる。

今更言うまでもないことだとは思うのだが、やはり芦田愛菜の演技力は素晴らしい。あこがれの教員が不意に現れたときのまばたき、場面ごとの歩き方にまで感情表現が窺える。他の子供たちも印象に残る。高良健吾と黒木華の神がかった教団幹部もじつに適役。この二人の物語も見てみたいと思わされる。
これはぜひとも観るべき映画だ。キメツのなんたらとかに現抜かしてる人間こそカルトなんじゃないか。

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