醜怪! 悪の蕎麦屋

「カメラを止めるな!」テレビ放送を楽しむ。やはり緻密に作られている。しかしこの作品だけを過度に持ち上げて、東京サンシャインボーイズ「ショウマストゴーオン」や、シベリア少女鉄道「耳をすませば」のような超傑作舞台作品を忘れるようではいけない。演劇批評は派閥意識ゴリゴリのポストモダンかぶれにずいぶん荒らされ、すっかり堕落してしまったな。

さて、近所に越後のへぎそばの店ができていたので、入ってみる。コシがあり、つるつるしてじつに美味い。ビールを注文すると、プラス200円でお通しがつきます、と言われたので断った。数日後、午後四時ごろふたたび店に行くと、この時間はカフェのみで食事はできない、と言われた。案内にも店の外にもそんなことは書かれてない。なんだここ? と思いつつ、その日はあきらめ、後日みたび足を運ぶ。ビールを注文すると、今度は勝手にお通しを持ってきたので断ると、責任者らしき気持ち悪い人物が現れ、お通しは断れないという。数日前はこうだった、というと、今回から変わりました、などという。さすがに頭にきて、二度と来ない、というと、気色悪い薄笑いを浮かべていた。醜く歪んだその顔を見て、これは爬虫類人だと直感的に確信した。
だいたいにおいて、蕎麦といっしょにカフェやってる俺カッケー、という意識高い系なんだろう(チェーン店らしいが)。客を蔑ろにして経営方針がコロコロ変わるようでは商売失格、一刻も早く潰れてほしい。

鴨長明『発心集』を読んでいる。入水した僧が成仏できず幽霊になってでてくる逸話など興味深い。(浅見和彦・伊東玉美訳注)

人の心、はかりがたきものなれば、必ずしも清浄質直の心よりも起らず。あるいは、勝他名聞にも住し、あるいは、驕慢嫉妬をもととして、愚かに、身燈、入海するは浄土に生るるぞとばかり知りて、心のはやるままに、かやうの行を思ひ立つことし侍りなん。すなはち外道の苦行に同じ。大きなる邪見といふべし。その故に、火水に入る苦しみなのめならず。その志深からずは、いかが堪へ忍ばん。苦患あれば、また心安からず。仏の助けよりほかには、正念ならんこと極めてかたし。中にも、愚かなる人のことくさまで、「身燈はえせじ。水には安くしてん」と申し侍るめり。すなはち、余所目なだらかにて、その心知らぬ故なるばし。(人の心というものはどうにも予測できないものである。常に清らかで、誠実な思いが源とは限らない。ある時には他者に勝るという評判を得たいという欲念にとらわれ、またある時には驕り、高ぶり、怨み、妬みの気持ちから、愚かにも身を焼き、海に入り、そうすれば浄土に生まれ変わることが出来るし、他人にも勝てると考え、心のはやるままに、そうした行を思いつき、実行してしまうのです。これは全くもって、邪道の世界の者が行う、愚かな苦行と変わることがない。とんでもない間違った考え方である。なぜならば、火の中や水の中に入った時の苦しみは、信じられないくらい激烈なものだ。身を捨てて、極楽に行こうという信念が弱かったら、どうしてその苦しみを耐え切ることができようか。苦痛があれば、心は乱れる。仏のお助けがなければ、平安な臨終を遂げることは、きわめて難しい。なかには愚かな人の言い草として、「焼身はできない。入水ならわけなくできる」などと言っているようであるが、それは見た目に入水は何でもないように見えるが、水の本当の怖さを知らないからなのだ。)

それにしても、醜怪で邪悪な蕎麦屋がはびこるのも、すべて不正選挙でアベが権力を握っているからなのだ。悪は滅ぼさなければならない。いまはただ正義を守るのみ、いまはただ、正義を尽くして闘うのみだ。
かくして、今日も正義は、私によって守られた。

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