水滸伝を断念

アベ批判ツイートしてたら、いきなりアカウント停止させられ、そのまま再開されない。あきらかにツイッター社のいやがらせで、おそらく数万人の反アベの人たちが発言を封じられているのではないか。アベが追い詰められ、滅亡を迎え、日本に民主主義が復活しようとしているとき、ともに声をあげられないのがなんとも歯痒い。アベ辞任と黒川辞任はセットだろ、と思っていたら、あっというまに、アベ逮捕と黒川逮捕はセットだろ、というところまで進んでしまった。

連休終り頃から、平凡社の中国古典文学全集『水滸伝』(全三冊)を読みはじめた。三国志の物語は好きで、吉川英治の小説、演義簡略版、完訳版と読み、いずれも寝食忘れて読み耽ったが、水滸伝は読んだことがなかった。80年代半ば、俺の行く図書館には、竹中労と平岡正明の水滸伝の本があって、この二人には興味があったが(もう一人太田竜も執筆予定者だったが逃げ出したらしい)水滸伝を知らないので読まなかった。
読んでみると、はじめのうちは面白くてすいすい読めるのだが、だんだん飽きてきて、速度が緩び、休みがちになってくる。
なにしろ同じような人物の同じような展開の物語が繰り返され、えんえん続くのだ。だいたい武芸を極めた豪傑が、敵により苦難に陥れられ、ついに怒りが爆発し、敵を殺して逃亡する。しかも登場人物が膨大なので、読んだはしから忘れてしまい、忘れたころになって再登場するので、これ誰だっけ、とさかのぼってみたりする。
これは単にならず者の行状録ではないのか?
倉石武四郎は水滸伝についてつぎのように書く。《これらの豪傑の行動はつねに官僚の悪行とたたかったものであり、その難儀はつねに官僚やその走狗によって計画されていたことは、政治にたいし役人にたいする民衆の不信感の反映であり、それはまた直接民衆が英雄を待望する心をやしない、その自衛の念をつよめたとおもいます。まして、梁山泊のキャッチフレーズは、「替天行道」ですが、これこそ私設政権の樹立であり、人民のみかたとしての革命を意味したものです。それは、まったく、のがれる道のない袋小路みたいなものでした。しかし、この人たちもこうした講談や小説によって、たとい自分自身には現実のすくいがなくとも、この物語をきいているあいだだけは自分もすくわれたように感じ、すくなくとも、すくいの可能性を感じていたことでしょう。》(『中国文学講話』)
といっても、こうした豪傑たちが現代日本人の俺には共感できない。敵となる役人どもがそれほど悪辣に描かれているわけでもないので、ただ個人的な恨みで行動しているとしか思えない。梁山泊の賊は民をむやみに苦しめないというのだが、戦闘場面ではけっこう無差別に殺戮しているし、とばっちりで殺される人物も多く、隠棲している好漢を味方に引き入れるため、彼が可愛がっている子供を殺すなんて場面もある。さらに出てくる女性はほとんどみな悪く描かれているので、女権論者が読んだら怒り狂うだろう。
しかも豪傑たちは反逆しながらも、体制を転覆するのではなく、いくらかの戦闘を経るとやがて朝廷に帰順してしまう。
そんなこんなで、三分の一も読むと退屈し、三冊目のあたまほどを読んだ後は、ついにもういいだろうと投げ出してしまった。
明末の批評家金聖歎は梁山泊が朝廷に帰順してからの終わりの三分の一を削除して、それが受け入れられ定本化されたそうで、古典文学全集版は完全訳なのだが、この部分にかぎらず、そもそも読む必要なかったかな、と思ってしまう。三国志演義のような栄枯盛衰のドラマも痛快な見せ場も人物の個性もない。なぜ水滸伝が四大奇書の筆頭になっているのか理解できず、中国民衆の鬱屈した情念の噴出としか思えない(日本人がヤクザ映画を好むのと同じだろうか)。
ひとつ意外だったのは、梁山泊の首領宋江が、他の豪傑にくらべてじつに地味~な登場の仕方をする、目立たない小男の小役人で、女房を寝取られたり、すぐ敵に捕まってしまう人物だったということ。これは俺が『魁!!男塾』に出てきた梁山泊十六傑の副将宋江将軍を勝手に思い描いてからだが、考えると、劉備玄徳も関羽・張飛・孔明にくらべて印象が薄いし、西遊記の三蔵法師も優柔不断で判断を誤ってばかりいる人物だ。さらにはマハーバーラタでも五王子の長兄ユディシュティラは弟アルジュナやビーマにくらべると影が薄い。勇猛果敢な人物よりも、繊細で優しい人物こそが上に立つにふさわしい、という東洋の美徳なのだろうか。

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