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zoom RSS 詩と箴言 西洋帝国主義への怒り

<<   作成日時 : 2017/02/20 14:16   >>

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イブン=ハルドゥーン『歴史序説』最終章には、アラブのすぐれた詩が多数紹介されているが、とりわけ美しく感じられるのは、スペインのムワシャッハとよばれる形式のものだ。アブー=バクル=アルアブヤドの詩を読もう(森本公誠訳)。

花の牧場に酒酌むとも 朝うなずきし
細腰の 夕べに来ぬは楽しからず
「酒はなぜわが頬打たん 北風は
なぜわれを求めん」と朝に言えばいと嬉しく
北風はつり合う枝(肢)をたわわしめ
わが衣もてそを包まん
そは命の泉を涸らさんか 歩みにも
わが心乱るる 瞬きは罪に陥らしめん
ああ美しき歯のほころぶ花びらは
渇を癒さん 病む人の愛の誓いは
とこしえに破れざらん たとい
火のなか水のなか 冷たき様を示すとも
結ばれんと願う望みの絶ゆるなからん


イスラムの支配を脱したのち、スペインは数百年にわたって南アメリカやフィリピンを侵略し、植民地にしつづけた。西洋各国は植民地競争で世界を疲弊させ、現地人を苦しめた。19世紀末、フィリピンの医者・作家・独立運動家のホセ・リサールはこんなふうに書いている。

植民地の人々の怠惰を、これほど非難するヨーロッパ人(略)にしてからが、熱帯の国々では、どんな生き方をしているか? おおぜいの召使いどもにとりかこまれて、自分の足では歩かず、馬車に乗り、かれらに自分のくつをぬがさるばかりか、自分をうちわであおがせることまで!やらせている。それなのに、栄養たっぷりのものを食べ、自由で尊敬を受ける将来を獲得するために、わが身のために働いている。それに比べ、あわれな植民地人、怠惰な植民地人は、栄養もろくに取らず、何の希望もなく、強制的な、義務的な労働をしている。どうしてか? 白人は、きびしい気候にたえるように作られていないからだ、とかれらは答えるだろう。それはちがう! 人間は、それぞれの気候が必要とする諸条件に、適用さえすれば、どんな気候の所にも、住むことができるのだ。

フィリピン人は、こう思いこまされている、幸福になるためには、理性をもった人間の尊厳をすて、ミサを開き、言われたことはすべて信じ、求められたものはすべて払う、払う、いつでも払うことが必要なのだと。また、働き、苦しみ、なにも言わずにいること、なにごとも、スペイン語でさえ知りたいとは思わないこと、僧職者が恥しらずにも言っているように、水牛のそばを離れないこと、不正行為、専横、虐待、侮辱に対して、文句を言わないこと、ということは、心も頭も憎悪をもたない人間になれ、と言うことだ。これが、理想の現地人像なのである!(「フィリピン人の怠惰について」『反逆・暴力・革命』岩崎玄訳)

リサールはスペインからの独立を主張し、運動を展開し、銃殺刑に処せられた。フィリピン最高の英雄と讃えられている。
俺がリサールを知ったのは、九十年代の初めごろだったか、「ノリ・メ・タンヘレ」「エル・フィリブステリスモ」という二作の小説がミュージカル化され、日本公演が行われたからだ。「ノリ」の映画も上映された。
ミュージカル「エル・フィリ」は、前半(「ノリ・メ・タンヘレ」)のダンス場面などは見応えあったが、後半「エル・フィリブステリスモ」は革命に絶望しテロリストとなった主人公の暗い復讐劇と化しており、明るいミュージカルとはそぐわない内容で、これはむしろセリフ劇で上演すべきものだったろう。
『ノリ・メ・タンヘレ』原作は図書館にあったのでただちに読んだが、「フィリ」の翻訳『反逆・暴力・革命』は数年後、高円寺の古本屋で発見し、読んだ。明るい未来ではなく、革命の悲惨、暴力への帰結を冷徹に見通している。それは闘争を煽動するのではない、真の理想に近づくための思考をこそ、求めている。これはフィリピン最大の小説というだけでなく、世界文学の至宝というべきだろう。引用したのは同書付録の論文。

西洋列強の邪悪な支配が、いかに世界を狂わせたか。そしてそれは現在にも尾を引いているのだ。
東京裁判で少数意見書を提示し、裁判を批判したラダビノート・パール判事はのべる。

第二次大戦の終結以来、世界に起こりつつあることから判断して、これら万物の霊長どもは、東洋人について、いまだに同じように考えていないだろうか。日本の敗北がすでに決定的になった後で、彼らは広島と長崎に原子爆弾を投下したのであるが、そのときの彼らの日本人に対する観念は、前述の土着的観念を一歩も出ていなかったことは確かである。(略)彼らの日本人観によれば、これらの人間は根絶ざるべき有毒動物≠ノすぎない、すなわち有罪の、有毒動物であるというのだ。(「平和の仮面を剝ぐ」『パール博士「平和の宣言」』田中正明編著)

十年ほど前、パール判事をめぐる論争が勃発したとき、その思想が「日本無罪論」か「絶対平和主義」か、という議論に終始し、西洋帝国主義への激しい怒りは閑却されてしまったのだはないだろうか。木下順二はパール判事を劇にすべきだった。

日本、インド、中国は東洋における主要なる三つの国であり、尾内文明の基盤に立っているのであるから、当然深く提携しなければならない。過去の歴史を見れば、西欧諸国が東洋諸国へ侵入し、いわゆる帝国主義を実行して東洋民族を搾取し、東洋民族は貧困な状態におかれ、そして東洋の文明は荒らしつくされた、ということがはっきりいえる。(「日本・インド・中国の提携へ」)

パール博士は深いアジアの叡智に立脚している。その思想は西洋に利用され分断された、愚劣な愚劣な、日本史上最も愚劣な存在であるネトウヨや拝金主義者とは、絶対に相容れないものなのだ。「日本の取り戻す」とかイキがってるクソどもは、パールのつぎの言葉を受け止めることなぞできないだろう。

私は日本のいたるところに展開する比類なき景勝の地に立って、この麗しい自然のめぐみの中に育ちかつ成長した国民が、どうして戦争などということを考えるのかと、怪しまざるを得ない。この麗しい大自然は、おそらくそこに住む人びとに、愛と平和を求めているに違いない。なぜならば、私たちが美しい自然の中にじっと身をひたして見とれているとき、そこから湧いてくる思念は、決して破壊や暴力ではないはずである。もしもあなた方が自然の子であるならば、そこから導き出される結論は、あなた方は破壊のための、暴力のための、戦争のための人間ではないということである。(「仏陀のこころに生きる」)

どんなに市場原理主義者が否定しても、西洋による植民地支配はなおもつづいている。スリランカで民衆自立のための運動をつづけるアリヤラトネはいう。かつてアジアの農村は相互扶助のなかで生きていた、だが植民者が侵入し、自分たちの価値をおしつけ、やがて現地の人間から、エリートとよばれるお目付け役を残して去った。こうした「受益者としてのエリート」と「与えるものとしての先進国」の連係がうまくいけばモデル国とよばれる。だがそれは真の幸福をもたらしえたのだろうか。

私は、しばしば直接農民に、外で何が起こっているか質問する。彼らは、エリートが考えている以上に、よく知っている。人間が、人間をどう搾取するか、どう人が人を殺し、自然を壊しているか、人がどう人を騙し、また自然を騙しているか、そして、人間が、お互いの滅亡に向けて毒を与え合っていることを知っている。農村に住む母親は、「進んだ」国が、どれほど残虐で、不正と暴力そして利己に満ちているかを知って恐れをなしている。彼女にとって、人間のなかの人間性を開発しない限り、世界を開発することは、何の役にも立たないことなのである。(『東洋の呼び声』訳:山下邦明・林千根・長井治 解説:室靖)

はっきりいえば、日本は植民地なのだ。官僚は甘い汁を吸い、政治家は不正で選ばれる。大衆は操作され、文化人はもはや役に立たず、積極的に体制に奉仕する。市場原理主義という植民体制を否定しないかぎり、日本に未来はない。

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