劇評6 ストアハウスカンパニー

こちらも自分のHP(現在は閉鎖)に発表した劇評。

  それでも人は服を着なければならないのか
 ストアハウスカンパニー「テリトリー」をみた(三月二十四日 ストアハウス)。
 舞台中央に紙くずや古着でできた小山が積まれている。黒ずくめの衣裳を着た演者が、ゆっくりと入場してくる。ゆっくり、しずかに歩いてくる。彼らは舞台上を歩きまわる。はじめは儀礼的に、一列に小山をグルグルとまわっているが、やがて鳥か魚の編隊のように、行き来しはじめる。彼等自身で法則を持っているみたいに、安定した秩序の中で、自由に向きを変え、群からはなれ、また合流し、はぐれ、また別の群と合流し、みずから群をつくる。しかし足取りはだんだん速くなり、なにかに憑かれたようについにゴミの山に乗りあげる。安定は失われ、ゴミは踏みしだかれ、蹴飛ばされ、拡散してゆく。演者の顔が怖いので、最前列にいた俺は彼等が客席に突っ込んでこないかとおびえ、目の前に転がってきた帽子を拾って持って帰ろうかと考えたりしていた。
 当日配布されたチラシに演出の木村真悟は、稽古に出てこなくなった劇団員を訪れ、ゴミの散らばったその部屋で、不意にテロ事件の映像に遭遇するという、劇的な文章を書いていた。翌日から、稽古に使われるモノたちはゴミの山に変えられたという。劇的といえば西○行○はヤンファーブルの「劇的狂気の力」にふれて、こんなふうに書いている。《緊張が次第に上昇カーヴを描いて、その極点に達したときが<劇的>なのではない。その次にやって来る、無とも空白ともつかぬブラックホールに踏み込んでしまった一瞬、それこそが<劇的>なのだ。》(『演劇思想の冒険』)
 うむ、これは肉体による格物窮理の劇なんじゃないか。去年「コペンハーゲン」という英国の作家の書いた劇をみて、面白くないと感じた。観念だけで巨視的世界と微視的世界を同一化しても、モノには迫れない。じゃあ人間をひたすら運動するひとかたまりの肉としてみたら? 演者たちはゴミの山だった場所で足踏みし、その体は拡散したゴミと同じように平衡を逸し、ゆらぎ、そして崩壊する。最初にへたりこんだのが稽古をサボった青年だったので、俺は彼が脱落したんじゃないかと心配したぞ。すこしとんで、全裸になった演者たちはビニル袋に身をくるみ(数年前にプロトシアターで香港の劇団がこんな場面をみせていた)、舞台上を手前から奥へ、奥から手前へと、転げまわる。なんかイスラエルのダンスにありそうだけど、自由を失い、抑制の利かなくなった体は、安定を保つことができず、ぶつかりあいながら、散乱していくしかない。演者の体は、もはやゴミそのものになったようにさえみえる。
 そのあと、ビニルの膜に収まった演者がゆっくりとよりそいあいながら近づく。人いきれに曇った視界を晴らし、外をながめ、膜をうすくひきのばし、つきやぶって、新しい人の誕生のように出てくる場面。ここと、ゴミの中にくずおれた演者たちが古着に埋ずもれ、蓑虫のように身に纏いつつ戯れ、交歓し、そのなかで、しだいしだいに黒い衣裳を脱ぎすてて、裸になってゆく場面。舞台作品としての「テリトリー」は、このふたつの場面の美しさによって支えられていると思う。でもビニル袋から外に出た演者の体は汗でぐっしょり濡れている。その汗を拭うこともなくゴミの中から古着をえらびだし、身につける場には、なにやら生理的な不快を覚え、どうじにこんな疑問も感じる。それでも人は服を着なければいけないのか、と。知恵の木の実を食べた人は、おのれが裸であることを知り、いちじくの葉で恥部を隠した(この葉っぱはヘアピンでとめていた、とは露の五郎の噺)。そのときから、人は争うことを運命づけられ、領域をめぐっていまも争いつづけている。
 もうひとつの疑問。それはこの舞台に向けるのは的ハズレかもしれないが、肉体をかくも過剰な運動にさらすことは、はたして人間の関係を変革する力につながりうるのか。

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