劇評25 パラドックス定数

某演劇祭の観劇モニターとやらで提出したもの

 パラドックス定数「5seconds」
装飾性を徹底的に剥ぎとった舞台。中央に机と椅子があり、客席はその四隅にだけ配置され、奥の机には小道具や水が用意されていて、俳優は転換のさい楽屋に戻らずそこで衣裳を整えたり喉を湿らせたりする。机に向かいあった二人の男が、抑揚のすくない台詞をぶつけあい、そのことばは鋭い刃物のように観客に突き刺さってゆく。二十二年前じっさいに起きた羽田沖日航機墜落事故をめぐって劇は進展してゆくが、どこまで事実が参照されているのかはわからない。飛行機を着陸寸前に逆噴射させ、墜落させ、乗客二十四人を死亡させ、現在入院中の機長片桐のもとを、弁護士日向野が訪れる。日向野は日航顧問弁護団の中のもっとも格下らしい。手錠をはめて現われた機長は、明快かつ意味不明な言辞で、弁護士を挑発し、あざけり、翻弄する。冷徹な機械のように無表情にしゃべる機長役の十枝大介の演技は、なにをしでかすかしれない狂気の迫力に満ちており、挑発に乗るまいとしながら引きずりこまれ、あわてて職務に戻ってゆく弁護士役の植村宏司の演技は誠実さを漲らせている。片桐の死んだ姉は分裂症で、自身も精神病の疑いがみられる。日向野は片桐を、分裂症でなく心身症だとのべる部分がある。よくわからなかったのだが、彼を心身症と診断した場合、そこまで追いこんだ会社の責任があらわになってしまうため、日航に雇われている弁護側にとっては不都合だが、分裂症ということにしてしまえば事故は機長個人の罪となり、会社の責任は問われず、好都合という見解があって、それに片桐を弁護せねばならないと考える日向野は反発していたということだろうか。会社と警察と弁護団の責任のなすりあいに直面した日向野は、片桐に、あなたのほうがまともにみえる、とさえいう。現実世界での機長は心身症と診断され、無罪放免となり、さすがに何をしてるか知らないが、いまも無事に(のうのうと)生活してるのだろう。最近議論がわきあがっている刑法39条について、俺は削除すべしという意見に賛成なので、この条項を盾に片桐を救おうとする日向野の誠実な努力に疑いの目を向けずにはいられない。ここにこの劇の弱さがあるのではないか。つまり、様式としての舞台の完成はなされているけれども、二人の男の立場の視点しかそこからは見えてこないのではないか。戦後文学的な理念から借りるのだけれど、社会の全体像を描く術として、同じような形で、事件の被害者、遺族、日本航空の重役、社員、警察、医師、等等による密室会話劇をいくつもつくり、さまざまな視点から事件を浮かびあがらせていったら、かなり面白くなるんじゃないか。日向野は途中、あまりに論理的な片桐に詐病のうたがいをかけるが、その結論はうやむやに消されてしまう。片桐は事故現場の遺体の写真を見せられはじめて表情を変え、沈黙し、うつむく。これは彼の罪の意識のあらわれなのか、それとも、この表情も偽りの演技にすぎないのか。彼は本当に狂気のただなかにいるのか。分裂病なのか、心身症なのか。事故をめぐる彼の最後の告白は本当なのか。はっきりとした答えはあたえられていない。真相を見抜けるのは、やはりあの男――そう、日本文化を根底から支える偉大な超A級文化人の一人、小田晋だけだ。というわけで、機長と彼を鑑定する小田晋を主人公にした会話劇が続編として作られることを心から願ってやまない。

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