劇評26 菅間馬鈴薯堂

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ワンワン

 菅間馬鈴薯堂「北の港へ」(十一月十八日 王子小劇場)
いきなり客席が畳敷きだ。「瞼の母」とか「国定忠治」なんかやってそうな、大衆演劇の常打ち小屋を、舞台も客席もそのままに再現している。主人公「ちっとも売れない演歌歌手」影山ザザの付き人で若くして死んだ歌手・島村時雨の一周忌に東北のさびれた演芸場に集まった面面が、きゅうきょ彼女の追善興行を打つことに決まり、その間の登場人物の関係の機微が、過去と現在がいりまじるかたちで、描かれてゆく。影山ザザ物(ザザというとどうしてもサンボの選手を連想してしまう)は何本か作られているらしいが未見。演歌といえば前進座の傑作「旅の終りに」はレコード会社の演歌部門を舞台にして、うつりかわる時代をたくみに捉えていたが、この劇はドサまわりの演歌歌手を描くことで、時代を超えて存在し日本演劇の祖でもある遊行する河原乞食の世界へと、目を向けさせる。だけどここまで舞台を作ったのだから、実際に追善興行の歌謡ショーや芝居も再現されると期待していたら、ちょっとした稽古場面が挿まれるだけだったので物足りない(舞台頭上に白いカーテンみたいなのが束ねてあったのでこれはきっと最後の華やかな場面にとってあるんだと思ったら結局この劇では使われなかった)。演歌・東北・旅芸人とくると鈴木・寺山・唐を思い浮かべちゃうけど、劇の進み具合はそんなアングラ的土着の世界ではなく、しごくさっぱりしたもの。俺には芸人の世界というのはもっとむきだしの我執にまみれてドロドロしているとの勝手な印象があるのだが、ザザを中心に登場人物はみな一様にやさしく人情味にあふれている(ほんのわずかにあらわれるいさかいも、じつはやさしさゆえだったとわかる)。ちょうど誰もが下手と認める時雨の歌声があまりに澄んでいて、演歌的な情念がすっかり削ぎ落とされているように。「過ぎ去ったものはすべて美しい」なんて台詞をたしか遠藤周作の戯曲で読んだように記憶する。そのとおり、思い出の中にあらわれる時雨は、はかなく、やさしく、うつくしい存在だ。同じように、そしてはんたいに、じつは舞台上のやさしい人達は、死んだ時雨の視点が選び取り、映しだしているものなのかもしれない。観客が出入りする通路は、また役者が出入りする舞台の花道でもあり、さらには時雨がみなに別れを告げるために姿を現わす能の橋がかりのような役割を担ってもいるのだが、それらの「道」が劇中で充分に活用されてるとはいえず、どころかむしろこの特殊な「舞台-客席」の構造が鑑賞の妨げにさえなってしまっていて、開演後すぐの総踊りが終わってから、数人の遅れた客がきて、そのうちのひとりが堂堂と客席真ん中の俺の目の前まではいりこんで坐り、けっこう嫌だったんだけど、よくみるとそいつは受付にいた男だった。こうなるとせめてスタッフ観劇用の入口を別に設置すべきだったのではないだろうか。

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