踊る信長2

踊る信長第二章

  二、民衆は踊る
 三田村鳶魚はこんなことを書いている。《カブキ踊は、当時目前のある武士等の特殊風俗を写したもの、すなわち時代物ではなかった。それから系統を引く歌舞伎劇ならば、現代物を中心とすべき宿因を持ったものではないか。過去をのみ世界とした芝居をするのは、まことに不肖の子といわねばならぬ。》(『芝居風俗』) 確かになあ、と思ったりする。十一月に上演された「桜姫東文章」をみたとき、お姫様が女郎に逆転し、ふたつのことばづかいがチャンポンになるという面白さが、どうしても感じられなかった。お姫様言葉も女郎言葉も同じに聞こえ、どっちがどっちだかわからない。南北戯曲の凄まじさが、伝統的な演技の形式では追いきれないという気がした。それにくらべると同月の「法界坊」の乱痴気騒ぎは勘九郎の熱演もあって、江戸の庶民も感じていたのじゃないかという現代性を味わうことができたのだが。
 だけど俺にとってさらに「かぶき」の精神を激しく感じたのはキューバのミュージカルレビュー「ハバナナイト」だった。つぎつぎでてくる華やかにいろどられた衣裳や作り物、歌に踊り、音と光の饗宴を肌で感じながら、俺はしきりに傾奇とか風流とか思い浮かべていた。それもそのはず、中南米に発達したものも、いま話題にしているかぶきおどり誕生の時代に発達したものもおんなじ南蛮文化を採りいれた風流の芸能なんだから。
 河竹登志夫はかぶきおどりにおける「かぶき」要素として《女芸人の、しかも仮面をつけない女性の肉体の、公然たる舞台への登場》《男装の女、女装の男という、変身における性倒錯》《茶屋遊里風呂屋など流行の風俗生態を生々しく扱ったエロチシズム》《南蛮渡来品を積極的に取入れた、華美で新奇で派手派手しい「異相」》《当意即妙に見物の女も僧もまきこんで、乱舞にもおよぶ騒然とした同化・共感作用》をあげ、西洋演劇の「バロック」概念との類似性を探っている(『歌舞伎美論』)。さらに河竹は独人トーマスライムスの説を紹介している。ライムスも丸谷才一とおなじく切支丹劇からかぶきのさまざまな異風が採りこまれたと主張しているという。そういや武智鉄二も九州に伝わる舞のなかの跳ねあがる動作にフラメンコの影響をみていたし、中村とうようも現代の河内音頭に南蛮文化を積極的に採りいれた安土桃山の精神の遺産をみている。(ついでにいうと、日本芸能をアジアとの関係の中で捉えることを最近の仕事にしている諏訪春雄は、歌舞伎の源流を中国大陸に求めている。中国演劇と歌舞伎の関係を直接証拠立てるものはいまのところないが、日本文化・中国文化・南蛮文化をめぐるこれらの学説を考慮にいれて井上章一『南蛮幻想』を読むとすごく面白い。)
 本題に入ろう。芸能における風流とは、仮装や作り物などの装飾性をいう。平安期から行われた御霊会がしだいに装飾性を帯び、風流を競い、そのもっとも極端な状態を傾奇とよんだ。これは首をかしげて奇怪とする状況だと林屋辰三郎はいう。傾奇と書いてかぶきと訓んだかどうかはわからないが、どっちもおなじ意味だと思っていい。やがて御霊会のなかで演じられるようになった田楽という芸能が爆発的に流行する。嘉保三年(1096)には永長大田楽といわれる大騒動があり、京中の人人が田楽に熱狂し、見物し、練り歩き、踊り狂い、はては乱闘になった。この騒動を古代から中世への転換期に際して《新時代への歩みを感じさせるものがあった》と守屋毅はいう(『中世芸能の幻像』)。祭りが価値を逆転させる祝祭になりはじめたのだ。女が男になり、男が女になるといった二項対立の逆転は、祝祭空間にこそ固有の現象だ。インドの祭りでは、一時的な階層の逆転がみられるという。そうした祝祭はけっきょく制度保全として機能するが、世相や政治への不満や怨嗟が民衆のなかに鬱屈し、それが社会の変動期に結びつくとき、祝祭や芸能は変革のための武器となる。社会の変革と芸能の変革が軌を一にするのだ。かぶきおどりのすこしまえ、下剋上の時代はまさにそうした変動期だった。
 鎌倉時代末期、またしても大流行をみた田楽はそれによって幕府を滅亡に導いたとまでいわれた。その後の南北朝の動乱によって既成の権威は失墜し、価値は転倒した。室町期には、乱世の声といわれた曲舞が流行し、そのとおり世は乱れはじめる。戦国時代の到来だ。民衆は権威に反抗し、村落の自治を主張し、武装しはじめる。土一揆・法華一揆・一向一揆などが起こりはじめる。狂言とはそんな時代にあらわれた、既成の価値を逆転させ、笑いのめし、権威を怒らせる、新しい下剋上の演劇だった。このころ本願寺法主として浄土真宗をひろめた蓮如も、布教の手段に能狂言を利用したという。《即興的な科白のやりとり、単純で明快な筋立て、たえざる動きのなかでの瞬間の遊び――狂言の世界とは本来そういったものである。狼藉者、あぶれ者、田舎者が我が物顔に京師をのし歩き、各地では夜を日についで一揆が火を噴いた十五世紀という時代は、狂乱と反抗と謀略の渦巻く世相にもっともよく合致する舞台演出を待望していたといってよい。そして蓮如もまた、一向一揆のさかまくなかで、これらの狼藉者やあぶれ者を懐柔し、田舎者を組織する運命を担っていたのである。したがって彼は、気質的にいっても、能の幽玄よりは、狂言の哄笑の方を好んだものと思われる。》(山折哲雄『人間蓮如』) それよりちょっとまえの鎌倉後期に、もうひとり芸能を武器に活動していた宗教家がいる。時宗の創始者一遍だ。その踊念仏とは、念仏を唱えながら男女入り乱れて激しく踊りまくるうち、性的宗教的法悦状態となるものだったという。松岡心平はこう語る。「一遍が始めたパフォーマンスはそれまで言葉で伝えていたものに肉体を結びつけたという点で画期的なことなんです。いわば、舞台の発見、メディア革命といってもいい。その後の展開をみると、一遍から日本の芸能が育っていったといってもいいと思います」(十一月十九日朝日新聞)
 中世都市の商業的発展と、応仁の乱後の室町幕府の勢力の衰退に伴い、金融業者を中心にした町衆とよばれる自治自衛の集団があらわれる。その町衆が踊ったのが、風流踊りだった。室町期から、風流は踊念仏と結びつき、囃しをともなった歌舞を意味するようになり、踊りはお盆の行事となった。貴族的「まい」が庶民的「おどり」に移行する中世への反逆の時期だったと郡司正勝はいう。こうした民衆の踊りを為政者は怖れ(守屋毅は「民衆の芸能的蜂起」とよんでいる)、たびたび禁令が出された。しかし町衆の文化は貴族文化とまじりあい、発展してゆく。貴賎群集といって、それまで貴人が座る場所だった桟敷に、庶民が座るようになってゆく。さらに風流踊りは宮中でも演じられはじめる(この現象を小笠原恭子は「踊の下剋上」とよぶ)。やがて小歌踊りという、囃しの音をおさえ、美しい声で恋の唄を聞かせながら踊る洗練された観賞用の踊りができあがる。五来重の簡潔な説明を借りれば、《踊念仏は風流化の結果、その宗教性をうしなってレヴューのような観賞用の念仏踊になり、小町踊から歌舞伎踊に変質する》(『芸能の起源』)のだ。祇園御霊会も町衆の主導で行われ、町町で趣向を凝らした山鉾を出していたらしい。盂蘭盆会にははなやかな大燈呂が飾られた。そして手猿楽という素人による能が流行していた。能も幽玄から見せ場に工夫をこらした風流能が作られるようになった。
 町衆が信仰したのは現世利益を求める法華宗だったが、その現実的欲求が宗教行事を娯楽に逆転させ、時宗からきた踊念仏と一体化する。一向宗というと浄土真宗を連想しがちだが、とうじは時宗も一向宗とよばれていたらしい。宗教はこうして民衆に浸透し、たがいにまじりあいながらも、その勢力を権力に利用され、敵対しあい、連帯を断ち切られ、衰亡してゆく。このような闘いは、ほんとうの変革を求めてのものだったのか、利己的な権力闘争にすぎなかったのか、あるいは特定の社会意識を持った集団に洗脳された結果ひきおこされたのか、それとも熱にうかされたような反抗のための反抗だったのかはわからないのだが、網野善彦は中世に一揆を起こし、権力と闘った百姓たちが乞食や非人のような異形の格好をしていたと指摘し、こう述べる。《抑圧され、差別される人々の服装を自ら意識して、一斉に身につけることによって、百姓や馬借はその行動の「自由」と、抑圧者と闘う不退の決意を自覚的に表明したのではあるまいか。》(『異形の王権』) この時期、声聞師という呪術的な芸能に従事する人たちの村が一向一揆に同意し、声聞一揆とよばれる行動を起こしたという記録がある。 
 民衆による新たな身体技法の獲得が、芸能の変容をもたらし、社会の変革を促すことを、体制は嗅ぎとり、弾圧する。このころ、おどりには跳・躍という字をあてた。日本全体が熱く跳ねあがり、躍動し、沸騰する下剋上エクスタシーに包まれていた。あらゆる価値が逆転する祝祭空間だった。現世を来世に逆転させ、来世を現世に逆転させる。踊る人人も、闘う人人も、その原動力は同じものだったのじゃないだろうか。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック