踊る信長3

踊る信長三章目

  三、そして信長も踊る
 そういうわけで、やっとこの読物の主人公・織田信長の登場となるのだが、じゅうらい政治・経済・軍事面でばかり語られていた信長は、芸能・演劇とも切り離せないものがあるようにみえる。それどころか、俺にはどうにも信長は演劇人としか思えない。信長自体が一個の巨大な劇なのだ。むかしから名古屋山三郎が信長の御前で舞を披露したとか、出雲のお国がかぶきおどりを披露したとかいう伝説もあるし、浄瑠璃の創始者といわれる小野のお通は信長の侍女で、その「浄瑠璃姫物語」という作品は病後の信長を慰めるためにつくられた、なんて伝説もあるぐらいだ。これらの話は信ずるに足りないものだけれど、じっさい信長が芸能を好んだという記録は、有名な幸若舞「敦盛」の話だけでなく、いくらも発見できる。彼は踊りが好きだった。
 たとえば武功夜話には若き日の信長は歌舞や猿楽を好み、声たかく歌い、鳴り物のやむことがなかったので、腑抜けの殿様と陰口を叩かれたとあり、また恋人吉野が男子を生んだときは彼女の実家の家人や召使・牢人衆たちとともに乱舞し、夜が明けるまで歌い踊ったという。その頃の信長について《吉法師様は生来、その性、闊達で五体から湯気が立ちのぼるようで、つねに生気に溢れていた。馬上で干飯をほうばっては鞍を叩いて、大声をあげて笑い、その明るさは稀にみるお人であった》と記録されている。駿河の今川が攻めてくるという情報が流れつつあったときも踊りを催していたのだからそうとうなものだ。信長公記によると、盆に津島で風流の踊りを主催し、家臣たちが赤鬼・黒鬼・餓鬼・弁慶・鷺に扮し、信長は天人の扮装をして小鼓を打ち女おどりをしたとある。小林千草は《それぞれのグループが群舞をしつつ、他のグループと有機的にからんで短い道化劇(広義の〝狂言〟)を構成するものと推測される》と書き、《前半、赤鬼・黒鬼が無体に餓鬼を責めるのを、後半、地蔵が救うというアウトラインはまちがいないと思う》と書いている(『原本「信長記」の世界』)。ここで信長はお国と同じ逆転を行っていることに注目されたい。世はまさに、逆転の時代だった。信長は庶民と親しくつきあい、津島の村人たちがお返しの踊りをみせにやってきたとき、いちいち声をかけて感想を述べ、踊る人たちをみずから団扇であおいでやり、茶を馳走してねぎらった。彼は貴賎の区別なく人に接したとルイスフロイスも記録している。信長は民衆文化の中にいた。
 《とにかく踊ることが好きで好きでたまらない若者であった。嬉しいにつけ悲しいにつけ、まずひとりでに身体の方が激しく動きだすといった具合である。もともと自分の気持ちを他人に言葉で伝えるという尋常なすべを始めから拒否した若者であった。踊ることでしか感動表現ができない鬱屈した心の若者だったのだ》と会田雄次は述べている(『織田信長と乱世の群像』)。信長の行為は、いつもはげしい衝動に突きうごかされているようにみえる。父親の葬儀に異様な風体であらわれ抹香をくわっと掴んで仏前へ投げつけそのまんま帰ってしまうとか、家臣の平手政秀が自害したあととつじょ悲しみに見舞われ鷹狩のさなか「これを食え」とさけんで獲物を裂いて宙に抛りなげ、あるいはいきなり川に飛び込んで「これを飲め」とさけんで水を宙に跳ねあげたりとか、大蛇が棲んでいるという噂を聞きつけ池に飛び込んだりとか、裁判に使う焼けた斧を掴んだり、とか。「単身、先頭を切って駆ける」ことを信長の行動の原型と秋山駿はいう。「何せうぞ くすんで 一期は夢よ  ただ狂へ」と閑吟集にある唄のように、その衝動には踊る町衆や闘う民衆とおなじ活力が漲っていた。彼は踊るように戦い、踊るように生きた。小林千草(千草子)は美しい本『原本「信長記」の世界』で《室町の芸能や信仰の中で、信長をとらえてほしいと思います》と書いている。彼が民衆の方を向き、他者を意識して茶目っ気たっぷりに演技するとき、通常俺らが想起するような、いわゆる芸能人として立ち現われる。けれどもおそらく信長が天人に扮して踊るとき、彼は天人に化るのではない。役を生きるのではない。信長は信長でしかない。ただ生きること。彼は生きた。五体から生気を溢れさせ、愛し、憎み、歌い、笑い、叫び、駆け、戦い、殺し、そして踊った。俺は演劇とは元来、そのようなものだと思うのだ。
 忘れてならないのが、信長の異装だ。公記には《湯帷子を袖脱ぎにして着、半袴。火打ち袋やら何やらたくさん身につけて、髪は茶筅髷。それを紅色とか萌黄色とかの糸で巻き立てて結い、朱鞘の大刀を差していた。》《長柄の大刀と脇差を藁縄で巻き、髪は茶筅髷に巻き立て、袴もはかない。》《髪は茶筅髷を萌黄色の平打ち紐で巻き立てて、湯帷子を袖脱ぎにし、金銀飾りの大刀・脇差二つとも長い柄を藁縄で巻き、太い麻縄を腕輪にし、腰の周りには猿廻しのように火打ち袋、瓢箪七つ八つほどをぶらさげ、虎皮と豹皮を四色に染め分けた半袴をはいた》とある。まえに網野善彦の文章を引いたが、信長もまた一揆勢とおなじく、猿廻しのような下層民を模している。慶長のかぶき者を五十年も魁け前衛をひたはしる姿は、まわりの目には既知外としか映らない。下剋上という祝祭空間では、天人も乞食もおんなじだ。信長にとって異装とは変革の記号にほかならない。
 足利義昭を奉じて上洛した信長は堺や京の町衆と対立し、のちには各地の一向一揆とも対立する。彼等は互いを、許すべからざる反動とみなしていたに違いない。一向宗徒にとって信長は残忍な独裁者でしかなかったろうし、信長からみて一揆の徒は、旧権力と結び変革の志を放棄した石山本願寺にまどわされた集団でしかなかったろう。変革を目指すもの同士が憎みあうという不幸は、避けがたいものなのだろうか。ともあれ信長は堺や京を支配下に治め、その文化を吸収した。風流踊りもその一つだ。上洛して三年後の元亀二年には先代未聞といわれたほどの風流踊りが行われている。やがて信長は、見物も巻き込むような大がかりな風流の野外劇を演出しはじめる。二条に将軍御所を造営したときは、藤戸石という大石を曳きだすためみずから指揮を執り、石を綾錦で包み、さまざまな花を飾りつけ、笛太鼓などで囃したて運んだ。どうじに石垣にするため各地の寺から徴収した石仏の頚に縄をかけひきずり、運びこんだ。建築工事には呪術芸能がふるくから伴われていた。木石の運搬の際には、歌舞音曲をもって囃したてるとそこにやどる霊が動きはじめるという信仰があった。さらに風流が伴って、いっそう華やいだ時空がつくられる。このころ建築作業を表わしたつくりものもあったという。小笠原恭子は《建築ということが、当時の新しい社会的現象として人々の目を惹くものであったことと、又その形態が、歴史上の英雄を人形にして眺めるのと同じほどの興味と感動を与えるものであったと考えてよいであろう》と書いている(『かぶきの誕生』)。信長はこうした行事をさらに大規模にし、作業をはかどらせるという効果をあたえつつ、人の目を喜ばせ、驚かした。自身の邸を建設したときは、部署ごとに舞台をしつらえ、うつくしく着飾った稚児や若衆が拍子をとって囃したてさせた。工事中はおおぜいのひとびとが手折った花を持って見物にむらがり、衣服にたきしめた薫香がいちめん漂った。都には平和が訪れ、さまざまな催しがおこなわれるようになったという。賀茂祭の競馬に馬を出場させてくれと頼まれると、名品の馬具で飾り立てた二十頭の名馬を差しだし、馬を曳く舎人も着飾らせ、またしても見物を喜ばせた。新年の左義長では爆竹を鳴らし(信長の火器にたいする関心はこのような演劇性からきたのだろう)、ここで信長は眉を描いた化粧をし、南蛮の帽子をかぶっていた。安土の盂蘭盆では城下いっさいの灯を消し、天主閣に提灯を吊るし、灯をともし、浮かびあがらせるなんてこともやった。色とりどりの提灯はまるで上空で燃えているようにみえたという。さらに信長は能や幸若舞を見物したり、宮中の行事を復活させたり、蹴鞠や相撲をたびたび見物したり、祇園会を見物したりしている。鷹狩を好み、お狂いといって家来に模擬戦をやらせ、みずからも馬に乗ってさんざんに駆け、暴れた。狂うということばには踊るの意味も含まれている。信長にとって戦とは演劇的実験だったのかもしれない。ほかにも「天下一」の称号をあたえることによって職人・芸術家を競わせ、手仕事の文化を保護し、活性化させた(お国もまた、天下一の女とよばれたのだ)。
 圧倒的な存在感を持ち、ありとあらゆる花車風流を凝らし、いくぶん狂気を孕みながら空間を、時代を、世界を演出し、変革しようとした信長は貴賎群集にとって注目の的だったと思う。彼の行くところ、つねに人が群らがり集まった。宮中へ参内したときは、鷹狩装束に身を包み、鷹を据え、廻りの家来たちも興を凝らして着飾り、皆を驚かした。堺で鉄張りの大船を検分したときも、船に幟・差し物・幕などで飾り、香をたきしめた衣服で着飾った群衆がそのすがたをひとめ拝もうと詰めかけるなか、信長はただひとり、さっそうと船に乗り込んだという。安土築城のさいもまた、九千人にもおよぶ人足が天地に木霊するほどに唄いつつ、石を曳いた。ここにも見物が犇き、あたかも森羅万象が安土に靡きよせるごとくだった。蛇石なる巨大な石を曳きあげるとき、信長は南蛮の緋羅紗の陣羽織を着て石のうえに乗って、指揮をし、皆を驚かした。
 その安土城なんだけども、内藤昌の復元図によると、巨大な吹きぬけ空間があり、そこから張り出し舞台が設置されていたという。内藤とは別の復原図を提出している宮上茂隆は唐物数寄が生んだ風流の空間と述べている。天主閣なるものの起源は諸説あって、前記『南蛮幻想』という本を読んでもらいたいが、俺が思うにこれは信長の故郷、熱田や津島の祭礼にでるつくりものが原型なのかもしれない。
 死の前年には、京都で馬揃えを挙行している。贅をつくした美しい騎馬軍団の豪勢な行列を野外劇化した一大閲兵式だったのだが、このときの信長は化粧をし、唐冠の頭巾のうしろに花を立て、まるで能「高砂」にでてくる住吉明神のようにみえたという。《これも風流の趣向の一つだといってしまえばそれまでだが、信長はこの場に、生きながら神として臨んだのだという解釈も可能である》と守屋毅はいう(『日本中世への視座』)。俺は若き日に天人に扮したとおなじ演劇性だと思う。信長は「予自らが神体である」といい、同年、自らを祀った総見寺を建立し、民衆に礼拝させたとルイスフロイスは伝える。これによって信長は神になったと秋田裕毅はいう。それは近代的自我の倨傲にも似ている。もっとも宣教師の報告はあんまり信憑性がないらしく、脇田修はこの年安土に参賀にきたものに信長が厩の口で拝観料百文を受け取ってはうしろへ放りなげた挿話が混在したと考え、今谷明は当時の貴族や僧侶がこの件を記録してないことから参拝者は安土周辺にとどまったのだと考える。しかし秋山駿はこれらの行為を《「洋風思考」というものを、真正面から受け止めての、信長なりの一つの解答であったのかもしれぬ》と書いている(『信長』)。安土には基督教の神学校もつくられ、南蛮文化がバンバン流入していた。宣教師オルガンチノは、日本人が新奇なものを好むと知り、祝日には盛大な祭典を催した。切支丹劇もそのひとつだったろう。演劇好きの信長のことだから、ひょっとするとヒマなときに見物したかもしれない。つまり洋風思考なんぞに強迫されることのないとうじの自由な日本人の精神にとって、南蛮文化など風流のひとつにすぎなかったのじゃないか。ほかにも朝鮮半島、中国大陸、東南アジアからもさまざまな文化がはいりこんでいたろう。内藤昌は安土城を分析して、それは下剋上社会の倫理意識、天道思想が表わされているのだという。《天道思想は安土城天主が造形される天正初期において、儒教・道教・仏教・神道それにキリスト教までも包含したまさに重層的性格を具備して、思想界に「天下を正す」原理を固めていたと考えられる》《そして天主は、そのさらなる聖域であったに違いない。王法・仏法を克服して天下統一を希求した信長は、既往のイデオロギーを否定でなく、超越する天道思想をもって、まず須弥山上にみたてた安土山上石蔵に宝塔を設けて仏舎利を奉祈し、ついで一階に盆石を安置して「神にして不滅なる」自己の化身を崇めさせ、そこでの超越的権威をもって一・二階でおこなわれる政治を支配、三階の天界に常住する。そうした精神的イメージをもつ吹き抜けの空間を利用しての二階舞台は、時に饗応の舞台であっても、天上の楽をかなでることも可能である。さらに五・六階は、まさしく天堂である。キリスト教の天主(デウス)にも通じて「唯一絶対神」以上の「統一絶対神」というより、「總見」の「總合絶対神」を志向して信長の座を極めたのである》と内藤は書く(『復元安土城』)。
 信長は武田信玄へ宛てた手紙に「第六天魔王信長」と署名したことがあったと伝えられている。信長がもし自分を神と称したとしても、それは彼が超越的な神に変化もしくは進化するのではない。まえにも書いたが信長は信長でしかありえず、一生涯変わることがなかったと俺は思う。そこで何かが変わったとすれば、おそらく信長と世界との関係が変わったのだ。神になるということは、もはや旧時代の権威のほとんどは解体され変革の一つの段階が終わり、それと同時に信長自身が拠りどころとしていた下剋上という思潮も役割を終えたということを、独自の演劇的表現として宣言したのではないだろうか。人が神になるという逆転を演ずることで、逆転の時代を終焉させようとしたのだ。(旧体制の解体のあと創造しようとしたのは宣教師から聞いた古代ローマの共和政だったというのが池宮彰一郎の『本能寺』)
 藤巻一保は信長と神道について興味深い研究を纏めているのだが、それによると第六天魔王とはインドの破壊と創造の神で踊る神でもあるシバのことなのだという。《シヴァ第六天の魔王にとって、世界とは、生命の織りなす「巨大な戯れ」であった。/人はその戯れの中に生まれ、死して戯れに帰っていく。/それが信長の愛唱した「死のは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの」の意味であり、「人生五十年、下天のうちをくらぶれば、夢まぼろしのあいだなり。ひとたび生をうけ、滅せぬもののあるべきか」の意味であったと私は思う。/それは一見、無常感に似たものと見える。/けれどもそれは無常感ではない。信長ほど、無常感からかけ離れた人間はおらず、シヴァ神ほど無常感の対極に存在する神はいなかった。/信長は「幻影の打破をとなえ」、巨大な覚醒者として立ち現れて、「踊りながら進んで、歓びいさんで」破壊し、そして創造した。》(『第六天魔王と信長』) 思想としての信長は、これほどの拡がりをもっている。破壊と創造をもたらす熱くほとばしるような「戯れ」ときわめて庶民的であたたかな「遊び心」が結びついたのが、信長の演劇精神ではなかったか。
 信長のあとをついで天下統一に着手した羽柴秀吉は、その演劇性も一緒に引き継いだ。まず最初に演出したのは、主信長の葬儀だった。灰と化した信長の遺体にかわって香木でつくった人形を棺に納め、その棺を金紗・金襴で包み、御輿は金銀を鏤め、かざりたてた。《五色の天蓋は日にかがやき、一様の旗は風に翻り、沈水の煙は雲の如く、燈明の光は星に似たり》(総見院殿追善記)というありさまは、一代の風流人の葬儀にふさわしいものだった。この葬儀には、信長のふたりの息子も筆頭家老柴田勝家も参加しなかったが、秀吉としてはこの華麗な祝典を貴賎群集にみせることで、織田家の人間でなく天下に、自分こそが次の時代の演出家だと、認めさせようとした。その後、茶の湯や花見など、彼はつぎつぎと派手な行事をくりひろげた。風流踊りが盆だけでなく、しょっちゅう催されるようになったのもこのころだ。世は商工業と貨幣経済の発達、鉱山の開発によって未曾有の消費社会が現出した。新たな祝祭空間が誕生したのだ。当時の記録に、若い頃は金三枚五枚持っていると世にもない長者といわれたが、今はどんな民百姓も五両十両の金を持っている、とある。しかし林屋辰三郎のいうとおり、《金は権力に通ずる。》(『歌舞伎以前』) 民衆は信長の専制支配に屈服し、ついで秀吉の経済政策に蕩しこまれ、あぶく銭を手にすることによって、自治自由の精神を手放してしまったのだ。消費に浮かれる太閤をはじめ貴賎群集を横目でみながら千利休などは、「都市に祝祭はいらない」とつぶやいていたかもしれない。
 津本陽は信長と比較して《秀吉の演出は、どこか田舎じみていて、みえみえのハッタリともいえる要素が強かった》と書いている(『創神 織田信長』)。そのひとつとして、自己神話化があると思う。秀吉は信長と違って等身大の自己を生きることができず、物語性を導入し、依拠せざるをえない。秀吉は能に熱中し、自分を主人公にした作品を自分で演じた。《彼は自ら神たることを意志し、神として振舞ったのである。それは彼の日常であり、演能とはその日常的時間のややにえつまった持続であった。》(松田修) 彼は自分史から父を抹消した。秀吉はみずから、自分の母は中納言の娘で宮中にあり、帝に近づいたあと、幾千万ものおはらい箱が伊勢から播磨へ飛行する夢をみ、その後じぶんを懐胎したと語り、自分の生まれを申年一月一日と主張した。日吉山王の申し子だから猿に似ているといいたかったらしい。のちには日輪の子と主張する。母が彼を身ごもった夜、部屋には日光が満ち、真昼のごとく輝いたという。やばすぎるぞこいつは。じじつこんなわけのわからない自己紹介文をふりかざした手紙を送りつけ、朝鮮に挑戦した。山室恭子は朝鮮出兵について《宣伝力によって人心を吸引して膨れ上がることに成功した政権は、つねに新たに人心を吸引する材料を供給し続けなくてはならない。それゆえの唐入りプロジェクト始動だったのではないか》と推察している(『黄金太閤』)。無限に拡大しつづける演劇性に歯止めが利かなくなるとどうじに、自己神話化の妄想も暴走し、ついにもっとも愚かなかたちですべてを蕩尽してしまったのが、朝鮮侵略なのだろうか。ちかごろ発見された能「この花」の台本によると、中国文化に造詣の深い皇帝役(ようするに中国の皇帝)を、秀吉みずから演じていたという。《語られることのない事件というものはありえず、また語られた瞬間に、物語が事件を変容させる。そして事件の説話論的な変容そのものが、社会を変容せしめる事件にならとき、もはや、事件は現実であり物語は虚構だと信じつづけることはできないだろう。》(蓮實重彦『物語批判序説』)
 もうひとつ信長と秀吉の違いをいうと、秀吉は演出家であっても変革者ではなかったということだ。秀吉は破壊をもたらさずごくごく平和裡に天下統一を成し遂げたが、変革をあきらめて旧勢力と妥協したために、その政権は脆いものとなり、彼の死後、たちまち世上は不安にさらされることになった。
  つゆとをちつゆときへにしわがみかな
       なにわの事もゆめの又ゆめ
という秀吉の辞世は、つかのまの繁栄がやがて泡沫のようにはじけて消えることを予感させている。

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