詩と箴言:終末論覚書

性根のまがった哀れな男は、手当たり次第に何でも嘲る。自分にも欠けた点がないわけでもないのを、知ればいいのに、それには気がつかない。(「オーディンの箴言」『エッダ―古代北欧歌謡集』谷口幸男訳)

ここしばらく、終末の神話について調べていた。メソポタミアやエジプト、ゾロアスター教やユダヤ教など、古代オリエント関連の本をいろいろと読んだが、どうも腑に落ちない。そんなときエリアーデ『神話と現実』にめぐりあった。これはやはり名著だ。宇宙創造の神話は王の即位にともない更新されるという。そのため終末が必要とされるのだ。「原始人にとって世界の終末は遠近の将来において繰返されるのであるが、すでに起ったといえるであろう。」(中村恭子訳)
終末は繰り返される未来であり、また過去でもある。いや、繰返される現在といったほうがいいか。それは生と死の絶え間ない循環だ。それは農耕時代に発達した思考だろう。
前田耕作は「古きコスモロジーは黄金の時代を原初に置いたが、ゾロアスターはそれを未来に置き換え、世界をつくり変える行為によって黄金の時代は正義の時代として実現するとしたのである」と指摘している(『宗祖ゾロアスター』)。
梅原猛は「かつて人類は、ほとんどいつも歴史の終末を考えていたと思う。ひょっとしたら人類は滅びるかもしれないという不安が、人間の中に存在していたのである」と書いている(『精神の発見』)。ところが、後藤明『世界神話学入門』によれば、神話の古層にあたるゴンドワナ神話には、洪水伝説こそあれ、世界の終末は語られないという。終末は新層ローラシア神話にあらわれる思考らしい。文明の発達が終末の思想を生む。おそらく現在の梅原が注目する縄文人の世界に終末観はなかったろう。

北欧神話エッダ「巫女の予言」は、未来の出来事(神神の終末)をまるで過去のように語っているのが面白い。過去としての終末と、未来としての終末が存在するのだ。「ロキの口論」という文献は、トリックスター・ロキが神神を罵倒する。これは農民の間で行われる「こきおろし」が神話に移行したとの説があるそうだが、「こきおろし」というのがどうのような風習なのか、はっきりわからない。日本には大晦日顔を隠した農民が権力者を罵倒する「千葉笑い」なる風習があったそうだが(現在も復活されて存続しているようだ)、それに似たものかもしれない。

原典訳『マハーバーラタⅠ』(上村勝彦訳)を読み始めたら、神神が甘露を得るため、生物に満ちた巨大な山を引き抜き、それを回転させて乳海を攪拌したので、多くの生物が死滅したという神話が語られている。「海中にいる種々の水棲生物は大山により砕かれ、幾百となく死滅した。そして山は、種々の海の生物、地底界に住むものたちを死滅させた。その山がまわされている間、大きな樹々は相互にこすれあって、そこに住む鳥もろとも、山頂から落下した。樹々の摩擦から生じた火は、幾度も燃え上り、火焔でマンダラ山をおおい、山はあたかも稲妻におおわれた黒雲のようであった。それは逃げ出した象や獅子を焼いた。そして様々な生物はすべて死滅した。」こうした大絶滅の記録は、あるいは人類以前の生命の遺伝的情報に組み込まれ、物語られたのではないだろうか。
ほかにも甘露を奪いあって神神と悪魔が闘うさまはエッダにも似て、蛇を殺す供儀をやめ蛇を解放する逸話など興味はつきない。ところで上村勝彦が亡くなってもう十五年経つけど、この原典訳完全版マハーバーラタ、続刊は企画されていないのだろうか?

オウム真理教もふくめて、テロリズムと終末論の関係も調べてみたい。
以上はとてもザツな感想にすぎない。きちんと考察して、一冊の評論にまとめなければならない。

本日の詩(ジョン・ダン「別れ」高松雄一訳)

この魂がもしふたつだとしても、頑丈な
 コンパスがふたつに分かれているのと同じこと。
おまえの魂は固定した脚、動くともみえないが
 他の脚が動くときはいっしょに動いている。

たとえ中心に静止しているようにみえようと、
 もうひとつの脚が遠くをさまようとき、
それはからだをさしのべて耳傾けている、
 そして帰ってくるとまたからだを立てる。

おまえは僕にとってそういうものなのだ。
 僕はコンパスの片脚のように円をかき、
おまえの確かさが僕の軌道を正しくする、
 そして出発点に僕を帰らせる。

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