詩と箴言:ジュゴンの歌

すべて文字は天道を盗む道具だ。それを知らないで文章を好む人間は、道を盗むことを好むまちがった人間だ。だから昔から詩文を好む連中に、互性の真道を知っている人間は絶無なのだ。文章は苦労して作るものではなくて、ただ意味を明確に示せばよいものだ。(安藤昌益「自然真営道」 日本の名著19 野口武彦訳)

「シャマニズム的な霊魂観を否定して、もし輪廻を説くとすれば、輪廻の主体は、結局のところ、個人を超えた生命エネルギーに類するものとなる。そこに永生不滅を見出すとしても、それは生命が個体の死を乗り越え、種として存続することであり、エネルギーが種々の形をとりながらも、総量において保存されることでしかない。/しかし、死や永生は、そしてとくに死後の問題は、人類や民族の次元に、さらには宇宙的な生命体の中に、個人を解消することによって答えられるものではない。なぜなら、死は、私の場合にしろ、他者の場合にしろ、特定の個人の死として、初めて問題になるからである。民族や文化の死などが論じられるにしても、それはあくまで、個人の死からの類推でしかない。」(岡田明憲『死後の世界』)

ゾロアスター教研究者の岡田明憲先生がこういった個人主義者だったのは意外な気がするが、個人主義と神秘主義はこんなかたちで結びつく、というより、個人主義こそが神秘主義の生みの親なのかもしれない。

崇高な私の名著『詩の根源へ』では、詩経に描かれた、女が果物を男に投げあたえ、求愛する投果の風習についてすこしふれた。タヒチでもこうした風習はあったと思われる。メラネシアのカーゴカルト(積荷崇拝)運動をとりあげたピーター・ワースレイ『千年王国と未開社会』によれば、ニューギニアのマンスレンという神話には、処女の胸に投げつけると妊娠するという果実が登場する。やはり投果の風習があったようだ。
詩経にはもうひとつ、男女が川を渡る恋愛もしばしば歌われる。川の神をまつる習俗から発生したようで、やがて渡河(駆け落ち)という行為になってゆく。これは中国少数民族にも残されており、ベトナム系民族には心中が多発したと伝えられている。
参考「トンパ文字の物語」
https://oudon.at.webry.info/200702/article_7.html

ここに紹介するのは古代エジプトの川を隔てた男女の恋愛詩(筑摩世界文学大系1 杉勇訳)。

 わが妹の愛は向う側にあり、その間には水流あり、
 しかも洲に鰐がいる、
 だけどわたしは水に入っていって流れをわたる。
 わたしの心は水嵩の中で勇ましくなり、
 波はわたしの足には大地のよう。
 彼女の愛情はわたしに力となってくれる。
 彼女は(わたしには)水嵩の(ための)魔力となってくれる。

最後は、男と一緒に暮らしていた妹が海に入りジュゴンに姿を変え、男は空へ行き月になった、というアボリジニの神話から(ロズリン・ポイニャント『オセアニア神話』豊田由貴夫訳)。

 今や「新しき月」が空に懸かっている、
    自らの骨を放り投げて
 次第に月は大きさを増す、
    新たな骨と肉を身につけて。
 遥か彼方、遠方の地で、月は骨を洗い流した
    月は光輝く。「蓮根の場」、そして「ジュゴン」の場で、
 「宵の明星」の場で、
    「ジュゴンの尻尾」の場で、
    「月に照らされた窪地」の場で……
 次第に大きさを増し、
    新しき骨もまた同様に育つ。
 彼方で、年老いた、アシで飾られた月の角が折れ曲がり、
    「ジュゴン」の場の中へと沈む
 その角は「ジュゴン」の場を指し示す……
 今や「新しい月」はいっぱいに満ち、
    その骨も一層、大きくなる。
 月は、水面の上にかぶさりながら、「ハスの場所」を見る。
 そして月は姿を現し、海の上にかぶさりながら
    大きさを増し、齢を重ねる……
 遥か彼方で月は立ち返り、
    ミリンギンビの近くの氏族の上に覆いかぶさる……
 それら氏族の頭上の空に覆いかぶさる……

辺野古の海の埋め立て反対署名にご協力ください
https://petitions.whitehouse.gov/petition/stop-landfill-henoko-oura-bay-until-referendum-can-be-held-okinawa

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