志村けん および小林信彦

志村けんが亡くなって、いくつかの追悼番組を観、雑誌記事を読み、ネット動画を漁りして、堰を切ったように志村のギャグのかずかずの思い出が甦ってくる。その多さは空前絶後といってもいいのではないか。あらためて志村けんは本物中の本物だったと思う。そうした偉大な人物が、コロナ感染という、病気というより突発的事故のような形でこの世を去ってしまったことが、いいようのない悲しみをあたえるのだ。芸能人の死にこれほど衝撃を受けたのは、岡田有希子以来だろう。
近年の志村はバラエティーやトーク番組にも積極的に出演していたんだな。八十年代はそうした番組に出ることはめったになかった。全員集合のころはメンバーの単独行動は禁止されていたらしい。プロ野球珍プレー好プレーのゲストに出ていたのを見て珍しいと思ったことがある。あと萩本欽一司会のクイズ番組に、ドリフターズゲストとして、毎回メンバーの一人が出演していたのを覚えてるくらいだ。
加トちゃんケンちゃんのおもしろビデオコーナーは志村の発案で、これがアメリカに輸出され、youtubeの元になったという。つまり志村がいなければ、ヨーツーベーなる連中も存在しなかったわけだ。
週刊ポストではビートたけしが、ドリフの完成されたコントに対抗するため、アドリブと内輪ウケを狙ったと言っていた。それが面白く感じられた時期もあったのだが、いまから考えるとドリフよりひょうきん族のほうが幼稚だったと思う。
週刊文春では小林信彦が志村について書いているのだが、小林は志村を「遠くからでも見たことがなかった」として、とりあえず書いてみたというだけの教科書風記述に終始している。小林はいかりや長介がリーダーになる前からドリフを知っており、いかりやに頼まれコントの台本を書いたこともあったという。加藤茶は協力的だったが、いかりやは厳しかったと書いていた。
小林は日本テレビの番組に関わっていたのでTBSとは縁がなかったと弁明しているのだが、志村が活躍したころにはもう小説家として独立していたはずだ。となると意図的に無視していたとしか思えない。
小林信彦の映画評は自分の好みと合うし、喜劇人伝の並並ならぬ知識と鑑識には敬服するほかない。とりわけ『おかしな男 渥美清』は、いまでは寅さんのイメージで固定されてしまった渥美を、個人的な交友によって、知られざる芸の世界を描き出した傑作だ。

ところで、86年だったか、朝日ジャーナルで中上健次と対談したビートたけしは、小林信彦氏の本を読んだら腹が立ってきた、と語っている。
手元に資料はないので、うろおぼえの記憶に基づくと、「娘がドリフよりひょうきん族を観ているので笑いの傾向は変化している」と小林は書き、たけしは「批評家が基準にするのは自分の娘だったりする」と文句をつけたのだ。
じつはこの対談以前のオールナイトニッポンでもたけしは「信彦さんの悪口は言いたくないけど」と前置きしつつ、同様の批判をしていた。
これに小林信彦が激怒する。とうじキネマ旬報で連載していたコラムに、たけしが理解不可能な中傷をしている、と書き、娘を基準に批評を書くなら、それはただのバカだ、と書いた(こちらもうろおぼえだが)。
しかし小林のコラムを読んでいた俺は、たしかに小林は「娘がみてるから何何は期待できる」と幾度か書いていたのを記憶している。
小林の言い分を忖度するなら、娘がみている云云は随想であって批評ではない、ということだろうか。しかしそれもまた一種の批評と捉えることは不可能ではない。
ともあれ、これがきっかけだったのか、以後の小林信彦は、たけしについてほとんど語らなくなる。小林が北野映画に言及してるのを読んだことがない。十代の半ばごろ読んだ『日本の喜劇人』(現在増補版を刊行準備中とのこと)で小林はたけしを高評価し、タモリには点が辛かった。キネ旬コラムでもたびたびたけしを持ち上げていたというのに。

おもうに、小林信彦は、いかりや長介にコント台本をボツにされるか何かしたのではないだろうか。その怨念が、ドリフおよび志村をガン無視する態度になって現れた、ということだったのではないだろうか。小林がきちんと志村を観ていれば、充分批評の対象になっただろうに。真に偉大で崇高な芸術家(芸術がわからない人間にとっては下品で低俗なタレント)を評価しなかったのは大いなる損失というほかない。
かくして、小林信彦の深層心理は、私によって解明された。

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