終末・進化・尊厳死

現在構想中の評論は三部構成で、終末論・進化論・尊厳死を扱う予定なのだが、もう五六年本を読んでいるのになかなか考えがまとまらない。
後藤明『世界神話学入門』で、世界の神話を古層のゴンドワナ神話と新層のローラシア神話に大別していることは以前にもふれた。
フレイザーは洪水伝説がアフリカ大陸にはほとんど存在せず、あっても一神教の影響とみている。
しかし、アフリカでも最古層に属する人類とされるブッシュマンやピグミーは、洪水ののち人類が現れたという神話を保持しているらしい。これはバビロニア風の人類滅亡神話とは逆の、人類創生神話で、大林太良らの名著『世界神話事典』を読むと、これだ!という発見をした。ここを調べれば終末神話の起源がみつかるかもしれない。古代人の認知機能について、スチーブンミズンの本をふたたび読む必要があるだろう。
これが第一部前半とすれば、後半は近代の、終末思想とは似て非なる、人類滅亡思想を取り上げる。これは西洋では18世紀に現れ、19世紀、ダーウィン進化論の影響のもとに発展してゆく。
そこで二部は進化についての考察なのだが、最近、自民党の広報が、改憲論をダーウィンに結びつけ、変化できるものが生き残ると主張して、ダーウィンはそんなこと言ってない、進化と進歩を混同している、と生物学者からも非難を浴びた。
けども、新自由主義的新ダーウィン主義者の主張をみると、自民党とそう変わらないように思える。そもそも新ダーウィン主義なるものが、ダーウィンが言ってないことのオンパレードなのだ。獲得形質の遺伝さえ認めているダーウィンは全くダーウィン主義者ではないのだ。

さて、第三部は尊厳死(自殺)をめぐる考察なのだが、数日前、れいわ新選組の大西つねきが、高齢者の増加した社会では政治が命の選別をしなければならない、と発言し、これまた非難を浴び、即時撤回謝罪と相成った。
大西つねきが間違っているのは、哲学的な問題を政治によって解決すべきとしたところにある。むしろこれは政治が絶対に介入してはいけない領域だろう(福田恆存風にいえば失せたる一匹の問題)。
そのむかし、西部邁と栗本慎一郎が対談で、梅原猛の脳死反対論を、個体の死を絶対視した近代主義(生命至上主義だったかもしれない)だという批判をしていたように記憶する。
西部が誤っているのは(栗本は論外)脳死こそ臓器移植を正当化するために捏造された死の概念で、まさに近代功利主義の産物だという事の本質を見落としているとこだ。
その西部が、自殺(ジャンアメリ風にいえば自由な死)を選択したのは興味深い。つまり西部にとって死とは自己決定されるべきものだったということだ。
これはさらに、宮台真司と小松美彦の論争を思い起こさせる。宮台は自由至上的立場から脳死=臓器移植をも自己決定されるべきと主張したおに対し、小松は医療倫理的見地から、脳死=臓器移植の危険性をもとに絶対反対を貫き、とうとう自己決定から主体性までを否定しはじめてしまった。これはあまりに行きすぎで、どうも極論同士のぶつかりあいだったように思われる。
俺の考えをのべれば、現代社会ではどのような死も自然死ではなく、人為がからみつき、結局死は自己決定されざるを得ないだろう。これを反出生主義や自発的人類絶滅運動と結びつければ、新しい倫理が誕生するのではないだろうか。

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