人類滅亡論序説2

 世界の終末・人類滅亡を語る本は多い。たまたま目についたものをあげれば、ジョエル・レビ『世界の終焉へのいくつかのシナリオ』、マーチン・リース『今世紀で人類は終わる?』、ナオミ・オレスケス+エリック・M・コンウェイ『こうして、世界は終わる』、フレッド・グテル『人類が絶滅する6のシナリオ』、アラン・ワイズマン『人類が消えた世界』『滅亡へのカウントダウン』(8)等等、まだまだ探せばいくらでも見つかるだろう。内容はどれも似たり寄ったりだが、これらを読むと、人類滅亡の要因として、暴走する科学技術、戦争とテロ、環境破壊と気候変動、天変地異などが列挙されている。なかにはホントかよ、と思うような奇妙な説もあるけど、現実的に最も可能性が高いとされるのは、生態系の破壊、人口増加、地球温暖化といった環境問題だ。
 悲観主義と楽観主義なら、楽観主義者のほうがまだ多いだろう。世界を代表する識者四人による「人類の未来は明るいか」と題された討論では、楽観的な肯定派の意見が聴衆の支持を集め、懐疑派を大きく上まわった(9)。また内閣府の世論調査によれば、「現在の生活に満足している」という答えが七割を越えたらしい(内実はかなり怪しいのだが)。
 しかし逆に、二〇一七年、核戦争の危機を示した世界終末時計や、地球温暖化の推移をあらわす環境危機時計の針がいくらか進んだ、という報もある。そこからただちに人類滅亡を憂慮し怯える悲観主義者はごく少数だろう(フレッド・グテルは気候変動について「世界には、心配で夜も眠れないくらいになっている科学者がいる、ということは覚えておいた方がいい」と書いている(10))。まだ大丈夫、たとえ何かしらの危機が訪れたとしても、人類の叡智はかならずそれを乗り切るはずだ。しかし少数の人の声がしだいに大きくなって、終末が語られる。天地が崩れるような自然の災害について、人間はいまだ無力さをさらけだすしかない。過去に五度起こったといわれる生物の大量絶滅は、いずれも地球環境の急激な変化が原因とされている。デビッド・ラウプは生物の絶滅を、偶然の悪いめぐりあわせによる、理不尽なものだったとのべる(11)。
ジャレド・ダイアモンドは社会崩壊の要因として、環境被害・気候変動・近隣の敵対集団の存在・近隣の友好集団からの支援の減少・さまざまな問題への対応の有無をあげている。環境被害の要因には森林乱伐・土壌問題・水産資源管理問題・鳥獣や魚介類の乱獲・外来種による在来種の駆逐・人口増大などがあげられており、気候変動の要因には太陽熱の変化・火山の噴火・地軸の傾きの変化・陸と海の配分の変化などがあるという(12)。
 ここでダイアモンドがのべる環境被害とは人為によるもの、対して気候変動は人為を超えた自然の働きによるものといえるのだが、現在の地球温暖化は環境破壊の結果もたらされると考えられている。ほんらい別物だった環境被害と気候変動は等号で結ばれる。自然にとりまかれていた世界に人為が張りめぐらされ、いいように(悪いように)変化させられる。ビル・マッキベンのいささか極論めいた悲観主義を借りれば、自然は意味を変容させられ、終焉を迎えてしまったのかもしれない(13)。すでに現代人は道家のように縋るべき自然を持ちえない。いまや世界中に偏在する人類がすっかり消え去ってしまうことは想像しにくいとしても、温暖化が前世紀末から大きな物語として席巻したのは、それが地球的規模での環境の変化をもたらし、人間を含めた生態系を根こそぎ破滅に導くと考えられるからだろう。しかしこれらの恐怖が、『淮南子』や『列子』で語られたような自然による偶発的な天変地異ではなく、人為による危機だったら、それは予測可能であり、人知によって回避しなければならない。

 人類滅亡の危機を唱える人がすなわち悲観主義者とはかぎらない。「このままでは滅んでしまう」という危機を語ることは、決して「滅んでしまう」という絶望だけからくるのではなく、「このままではいけない」という、それを乗り越える可能性や対策を提示している場合のほうが多いだろう。そして滅亡を否定する人が、かならずしも楽観主義者というわけでもない。

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